満たすもののためのテキスト#04
手に、ぴたりとおさまるグラスがある。てのひらのなかに自然とおさまる。片手でかたむけても、両手で包んでもしっくりとくる。目に見える線と手に触れる線が綺麗な仕事をしている。
飲み物を注ぐと、グラスの周辺がさぁっと良い景色になる。
そんなグラスたちに初めて触れたのは2010年頃の金沢でのこと。Bar Book Boxをはじめる直前の頃。金沢のとある通りを入った路地に塩井さんが営む、18.19世紀のイギリスアンティークを扱うアンティーク店「フェルメール」がある。ひょんなことで訪れた金沢での縁はコツコツ今にも繋がっている。
金沢の観光地にはほぼ行けていないけれど、ほぼ毎年必ず「フェルメール」の塩井さんと「バー マルティニ」のマスター和世さんに会いに金沢へ通った。私の物を見る目を具体的に更新してくれた人たち。
「マルティニ」のバックバーにはフェルメールのアンティークグラスが整然と並んでいる。その美しいグラスたちで特別なお酒を親密にたのしむ時間を得た。「フェルメール」の多様な空間にはたくさんのグラスと共に、イギリスやスコットランドの時代の層から選ばれて運ばれてきたものたちがひしめいている。その中で塩井さんから聞く本や文化や歴史やご近所のことまで縦横無尽に走る情報をかき集め、自分の頭のフォルダにとっさのメモと共に放り込んでいく。そんな中で、手にぴたりとおさまるグラスたちを知った。
200年も昔のイギリスアンティークグラスに自分が触れる、と想像もしていなかったはじめの頃は、フェルメールの店頭で触れることすらできず、古いポストカードや、ふしぎなものたちにおそるおそる触れていた。
マルティニのカウンターでグラスとして口に触れてから、フェルメールに再び行っても、なかなか触れることは怖かった。バーでたくさんのグラスに触れているのに、アンティークグラスと聞くと背筋が固まった。道具としてのグラスとしてなかなか見ることができない。何度か訪れるうちに、ゆっくり、ゆっくり、触れられるようになっていった。フェルメールでたくさんのものに、グラスに触れさせてもらった。触り方や、見方、音の違い、年代について教えてもらいながら、本当にたくさん、触らせてもらった。少しずつ、「希少で怖いアンティーク品」が手に心地良いグラスに変化していった。たくさん触れさせてもらうことで、グラスとして出会い直しをさせてもらったのだと思う。時間をかけて。
ある時、とうとうアンティークグラスを、フェルメールで購入した。はじめて訪れた時から考えたら随分時間がかかったと思う。おおきめの、ロックグラスのような大きさのタンブラーで、シンプルなカットがぐるりと入っている。おおぶりだけれども余計な重さがなく、不思議と手になじむグラス。これにしますと決めた時、私の手のなかでしっくりとおさまっていた。200年前にイギリスでつくられたグラスが、はるばる自分の手元にぴたりとおさまっている。なんとも不思議な感覚だった。柔らかなウイスキーをゆっくり注いであげたらとっても素敵だろうと想像できた。
使う人の想像ができていないと意味がないと、教わった。「希少で怖いアンティーク」ではなにも想像ができないのだった。歯ブラシでも櫛入れにするでもなんでもよいのだと。使う人が、具体的に使う想像ができていなければ選ぶ意味がないということ。使う想像をする力が、物を見る目線を格段に変えていくことを、自分の感覚の変化で知ることになった。
ひとつ目のグラスを迎えてから、フェルメールでの見えるものが変わっていった。ひとつひとつのものとしてやっと見えるようになるような。森全体から、草花ひとつひとつに視線が降りるような。わからないなりにも実感があった。そうしてやっと、自分の店で自分のカウンターで使うなら、このグラスを、こんな個性のお酒でこんな風に出してみたい、という自分なりの具体的な想像でフェルメールのグラスに触れるようになっていった。
古いものだから必ず素晴らしいということではないと感じている。古いものでもあたらしいものでも、自分がどんな風に使うのかを想像する力量で、選ぶ物、見えるものが変わってくる。
フェルメールで触れるアンティークのグラスたちは200年の間、誰かが「どんな風に使うのかを想像する力量」を発揮して選ばれ続けたものたちでなのではないか。
誰かが心地よいと実感し続けたものがまた誰かに届いていく。誰かの手の心地が時代も国も関係なくリレーされていくことに驚く。その一帯にBar Book Boxのカウンターも加わっている。
自分の手の感覚が、グラスを見る視野が変化した結果、「フェルメール」で出会うようなグラスが、今つくられているグラスたちにはどうやらあまりないようだということに行き当たることになった。困ったことだ。200年前の産業革命の頃から急速に失われていった職人の手仕事。もう失われてしまったもののなかに、フェルメールで触れたグラスたちも入っている。社会の大きな変化の中で失われてしまったものなのだから、2000年代の現代にもう見つけられないことはあたりまえのことかもしれないけれども、「フェルメール」で触れたたくさんのグラスたち、ものたちに触れて思い当たることがひとつあった。
手に、ぴたりと。てのひらのなかに自然とおさまる。片手で傾けても、両手で包んでもしっくりとくる。目に見える線と手に触れる線が綺麗な仕事をしている。この手の心地に覚えがあった。鎚起銅器職人大橋さんがつくる鎚起銅器たちに触れた時の感触だった。そして、大橋さんは過去の歴史の職人ではなく現代を共に生きる、今を生きている職人なのだ。
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