父記録 2023/5/29
雨、低気圧。
「来たわよ〜!
愛妻の由美子さんが来たわよ〜。
愛妻じゃなくて恐妻かしら。
『こわいよ〜由美子がいじめるんだ〜』
なんちゃって。そんなこと一度もしたことないわよ!」
久しぶりの母と二人での面会は早速賑やかだ(母が)。
「ねえ、寝てるの?来たわよ?寝てるの?生きてる?」
生きとるわ!
「あの頃、国立にはいないような貧乏な生活をしてたのよ。お父さんは本当に控えめでわがままなんてひとつも言わなくて、お母さん『こんな人いるんだ!』ってびっくりしたの。」
母の思い出話はいつもカットイン。
前置きは、ない。
母「本当に純粋で、そういうところが好きだったのよ。顔じゃないのよ。」
私「顔だって良かったよねえ、お父さん」
母「顔は…良かったかよく分かんない。昔飼ってた犬に似てるな、って思ったけど。」
母の愛犬、ムク。
母「ムクは控えめな犬でね、いい犬だった。顔がこう、長くてね。似てたのよ。
お父さんは本当に心がきれいで、お母さん『この人の為ならなんでもしてあげたい』って思ったのよ。なんでもしたしね。
国立には…ううん、国立じゃなくてもこんな人いなかった。そういう純粋なところが好きだったの。
…でも人って変わるのね。仕事が上手くいくようになったら傲慢になっちゃって。」
雲行きが怪しくなってきた。
長年連れ添った間には色んなことがあったのだろう。こうして話していると長い道のりの色々が思い出されて、つい文句のひとつも言いたくなるのかもしれない。今言うなよ、とも思うけど、これが愛妻由美子だ。我らが由美子だ。がんばれお父さん。
主治医のO先生と面談。
父の状態は悪くはない。けれど痰吸引の回数が多く、この状態だと元の特養に戻るのは難しく、療養型病院への転院が妥当とのこと。
近隣の療養型病院を幾つかピックアップしたリストを頂いた。
「ただ…どこも面会制限が厳しいんです。」
病院のソーシャルワーカーさんが調べてくださった近隣の療養型病院リストには「面会禁止」「面会はオンラインのみ」「面会は2か月に一度、15分、二人まで」などの文字が並んでいた。
かろうじて二つ、面会可能な病院があった。
A病院:要PCR又は抗原検査、予約制(1日6組まで)、一日20分。
B病院:要PCR検査(1人一回11000円)、予約制、一日1時間。
「あなたのとこみたいに面会許してるとこなんて他にないよ、って言われちゃいました。」とO先生。
そう、このK病院では個室なら1日2時間、大部屋でも30分面会が出来る。
先生もソーシャルワーカーさんも穏やかで親身で、どんな質問にも嫌な顔ひとつせず丁寧に説明してくれる。
私が遠方への出張を躊躇い、先生に相談した時、O先生は
「今、ある程度病状は安定しています。とはいえもちろん、いつ何が起こるかは誰にも分かりません。けれどそれはいつでも同じです。娘さんがご自分のお仕事を、出来るだけいつも通りに全うされる方がお父さまも喜ばれるのではないでしょうか。」
と言ってくださった。
院内は隅々まで整頓されて清潔に保たれ、病室の窓は大きく日当たりが良い。看護師さんたちは皆優しく丁寧で、声掛けや対応のひとつひとつに父が一人の人間として尊重されていることが感じられる。
四月半ばに父が緊急搬送された大学病院は面会禁止だった。おそらく今はどこの大学病院もそうなのだと思う。
どうしても父を面会の出来る病院に移したくて、ICUから一般病棟に移るタイミングで近隣の病院を調べた。
最初に思い浮かんだのが父の特養の訪問診療をしているK病院だった。K病院はホスピスがメインの病院なので一般病室の割合は少ない。
大学病院から問い合わせてもらうと、すぐにK病院への転院が決まった。院長先生が急いで進めてくださったと聞く。
「ずっとここにいられたら、いいんですけどね…」
本当に申し訳なさそうにO先生が言った。
それだけでありがたいと思う。
「夜間の痰吸引が出来ないというリスク覚悟で特養に戻るということは出来るんでしょうか。療養型病院の方が医療体制が整っていてもほとんど面会出来ないのでは意味がない気がします。
今の父にとっては家族と過ごす時間が何より大切な、『生きている』ってことなのではないか、と…」
辿々しく話す私の目をまっすぐに見ながらO先生は
「本当に、そうですね。」
と言った。
「特養の方では経鼻胃管に対応出来る枠をお父さまの為に確保して、まだ待っていてくださってます。もう一度、詳しい病状を伝えて相談してみますね」
母が「本当に良くして頂いて…ありがとうございます。」と何度も頭を下げた。
母とふたり、父の病室に戻る。
父はまだ眠っていた。
「面会が出来ないんじゃ、ねえ…」
母が言った。
リスク覚悟で特養に戻ることは出来るのか。
四月の段階では特養は五月半ばから、面会を全面解禁する方向だった。
2時間が経った。
私「今日はずっと寝てたね〜。特養に戻れるように、がんばろうね〜」
母「痰をごほんごほん!って出すのよ!」
「お父さんまたねー」ふたりの声が揃った。