見出し画像

父記録 2023/5/3


晴れ。
高く伸びたゴールドバニーが更に次々咲き膨らんで、2階の窓辺から黄色いブーケを差し出したみたいになっている。

今日は祝日だって分かってたのに慌てて法務局に行ってしまった。つまり分かってなかった。

父の面会まで少し時間が余ったのでファミレスに入ったら、向かいのボックス席に子どもたちと両親とおばあちゃんで賑やかにパスタ食べてる家族がいて、こういうひとつひとつの瞬間が愛おしいんだと勝手に眩しく感じた。
「デザート食べるひと〜」「ぼくチーズケーキ!👦」「おなかいっぱーい👧」

ファミレスを出て病院に向かいながら、今日は私が子どもの頃の話を聞きたいな、と思った。

病院の待合で母と落ち合う。
いつも私より先に着いている。
今日の母は父の作ったネックレスを着けていた。
結婚35周年の記念に父が母に贈ったネックレス。
村田高詩独特のカーヴと、幾何学的なトアレグ模様を組み合わせ、真ん中に大きなダイヤを埋め込んだ、凝ったデザイン。
母は普段は父の師匠であるゴローさんのフェザーばかり着けているが、今日は父のネックレスを着けて来た。
よかったね、お父さん。

看護師さんに父のミトンを外してもらった。
今日も父の足を揉む。
「あのさ、たまに日曜日とかに紙粘土でブローチたくさん、一緒に作ったよね。あれ楽しかったな。」
紙粘土を丸めて平らにして乾かして、絵の具で絵を描いて。
乾いたら母がニスを塗って留め具を付けてくれた。
田んぼの見えるベランダで、お花や動物を描いた白玉みたいな紙粘土が乾くのをわくわくしながら眺めていたっけ。
「お父さんは日曜日もずーっとカバン作ってたでしょ。ゴローズのカバン研究して。」
母が言った。父といえばいつも長い作業机に向かって、革を裁ったり縫ったり磨いたりしている後ろ姿。
ゆきおさんは
「アニキは駅で待ち合わせの間も、電車に乗ってる時も、家で飲んでる時も、話しながら手はずーっとカービングの練習してたなあ」と言っていた。

父の手がカタカタと震えていた。振戦。
パーキンソン病の症状。今日はジスキネジア(不随意運動)も多い。
パーキンソン病の初期症状は手に出ることが多い。けれども父の場合、手の動きへの影響が出始めたのは遅く、その進行もゆっくりだった。振戦やジスキネジアは本人の頑張りではどうにもならないものだけれど、職人の気力みたいなものでなんとか押し留めていたところもあるのではないか、と思う。

「ともちゃんが二歳くらいの時ね、ちょっと目を離した隙に大きな姿見を割っちゃったことがあったのよ。鏡が粉々に割れちゃって。
『どうしたの⁈』って訊いたらともちゃん、『鏡だっこしたの』って言ってた。怪我はなくて安心したんだけど、お母さん慌てて鏡の割れたの片付けてたらともちゃん、『お父さんに直してもらえばいいじゃない?』なんて言ったのよ〜」
母が話しながら笑う。
そうだ、父はなんでも直したし、なんでも作った。
ちゃぶ台用の小さなこども椅子や、モンチッチのチョッキ。
私がバレエを習っていた時も、発表会の衣装の飾りや小道具はみんな父が作ってくれた。

母「店を始めてからは日曜日は絶対休めないし、あんまり遊びにも連れて行ってあげられなかったわねえ」

私「でも夏休み、1か月小笠原行ったよね。あれ楽しかった。」

母「ゴローズ三年勤めて、お母さんも保育園で働いてお金貯めて独立して。一生懸命働いたから、思い切り休んで遊んでみたかったの。」
小笠原に家族旅行に行ったのは、店をオープンして二年目の夏だった。
一か月同じ民宿に泊まった。
車道が一本しかなくて、30分もあれば車で一周出来てしまうような小さな島だけど、毎日歩いて色んな浜に行った。
宿にはジョンという白い犬がいて、いつも一緒についてきた。(思えば放し飼いだったんだな)
帰り道、スコールが降ると通りすがりの車が宿まで乗せて行ってくれた。ジョンも一緒に。そういえばジョンが一緒だったから乗せてくれたのかな?
アフリカマイマイやハイビスカスを見たり、ボートで海に出て、漁師さんが潜って獲ってくれた雲丹をその場で食べたりした。
三人とも真っ黒に日焼けした。

「村田さーん、お食事ですよ〜」
看護師さんがやってきて、経鼻胃管の液をセットしてくれた。
「栄養つけて、元気になってくださいよ〜」母が笑った。

"食事"が始まると父は、何かを食べているような動きを始めた。
左手で食器を押さえ、右手に持った箸で何かを掬って口に運ぶ。口が迎えるように受け止めて、ゆっくり味わっている。
お蕎麦かな?お肉かな?
「わあ、お父さん上手!食べるパントマイムがすごく上手!」
私が手を叩くと母が
「パントマイムじゃないわよ、ほんとに食べてるんだもん。ねー?」
と言った。
父が微かな声で何か言う。耳を近づけても聴き取れない。
「デザートに甘いコーヒー、舐める?」
口腔ケアのスポンジにキャラメルマキアートを染み込ませて絞り、父の唇に少しだけ付けた。父は顔を顰めた。
「どうせ飲めないんだろ、って言ってるわよ」母が言った。
一回。二回。父の唇や舌先にキャラメルマキアートを付けると父は顔を顰めたままもぐもぐと味わった。
母が「死んじゃったらさ、ゴンやディドやくまこが喜んで迎えに来るわよ。くまこなんて一番喜ぶよ。お父さんきたー!またくっついて寝よ!なんて。」と言った。
なんで急に死ぬ話。

末っ子犬のくまこはお父さん子だった。
私が留学先のロンドンから一時帰国していた時に大学通りの道売りのペットショップで出会った子犬。黒柴とハスキーの雑種で、譲渡先から返されたと言って店頭に並んでいた。
当時実家にいたゴンもディドもこのペットショップから来た子たちだ。
私が子犬のケージの前で立ち止まるとペットショップのおじさんが
「抱っこしてごらんよ」と言った。
母は絶対抱っこしない!と言ったが私は抱っこした。小熊みたい。
「おやじさんに見せて来なよ。8時までここにいるから。」とおじさんは言った。
店に連れて行くと子犬は転げ回ってはしゃいだ。ディド(女の子)が嬉しそうに子犬の世話をした。

子犬を返すため、8時前に車で大学通りに行った。
道売りのペットショップの向かい側に車を停めて、しばし家族会議。
「可愛いけど、お父さんとお母さん二人で三匹は無理ね」
私は2か月後にはイギリスに戻る。
「返そう。」
15分ほどの逡巡の後、家族の意見がまとまりペットショップの方を振り返ると…おじさんはもういなかった。ペットショップは撤収されていた。
道売りペットショップが次に来るのは1週間後。子犬はそれまでうちで預かることになる。
「もう無理だね…」
家族の意見がまとまった。1週間うちに居たら返せるはずがない。
こうしてくまこはうちの末っ子になった。
私は2か月くまこを育てて、イギリスに戻った。
この時、イギリスに届いた父からのハガキにはこう書いてあった。
「元気かい?くま子はバクバク食べてどんどん大きくなってるよ。こっちのことは心配いらないから、やりたいことを全部やっておいで。」
くまこも私も、お父さん子。

2時間経った。
「帰るね、またね」と言うと父は微かな声で何か言う。
聞き取れない。聞き取れない。
母が「帰らないで、って言ってるの?」と尋ねると、父はこくんと頷いた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?