1粒でも1年
普段何気なく生活していて、
「良し」
と思っていたことが、
「いけないんだ」
と気づかされることがある。
学生時代の友人数人と食事に行った時の事。
そこは肉類が売りの洋食レストラン。
洋食なのでスープを除けば殆どのメニューは
盛り付けは平皿である。
メインディッシュは大皿
ライス、サラダは中皿。
他愛もない会話をしながら食事は進んだ。
早く食べ終わった一人が、ナイフとフォークを揃えて
ご馳走様合図を出した。
奇麗に食べ終わったかのように見えるそのライス皿を見て
一人がチェックを入れた。
「ご飯粒残ってるじゃん」
よく見ると原形はとどめてないが潰れたご飯粒が数粒皿に
こびりついていた。
フォークでこそげ落とすように引っ掻けば取れそうだ。
しかし、この程度なら取り立てて指摘するレベルでも無いと
いえなくもない。
指摘されて彼はフォークを持ち直し先端でこする様にして
潰れたご飯粒を食べつくした。
ご飯を奇麗に食べる。
一粒のご飯も作るのに一年かかる。
ということは子供の頃、親から躾られているはずだ。
僕の両親の実家は農家。
指摘した友人の気持ちは良く分かる。
僕もこの程度のご飯粒は見逃してきたかもしれない。
しかし、誰にも指摘されたことはない。
指摘した友人は恐らく親からの躾がやや厳しかったのだろう。
僕の家は厳しかったという実感は無かったが、僕自身
身について奇麗に食べてるつもりだ。
指摘した彼の一言で、
皿にこびりついたご飯粒のルーツを
頭の中で辿ってみた。
春になり雪が解けると田んぼを耕す。
5月になると田植えをする。
夏の間は雑草の掃除や水加減などを調整する。
秋には稲刈りが始まる。
結わいて干す。
脱穀。
精米。
これが10月~11月には終わると認識している。
実質1年弱。
ご飯一粒でもこれだけの物語を背負ってる。
当たり前のように毎日食べているご飯について改めて
一瞬、真に向き合うことが出来た。
今、目の前にある全てのものはドラえもんのポケットから
出てきてそこに居るわけじゃない。
僕たちが気が付かない、
いや目を向けないだけだ。
その物語に。
飽食の時代。
無くなったら買えばいい。
買えることが当たり前ではなく、
誰かの苦労で成り立っていることに、
一瞬時間を止めて
「ありがとう」
と声を出して
感謝する、
深呼吸も必要ではないだろうか?
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