『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』全文公開③女優との恋
アメリカのマイケル・フランクスという歌手の『ザ・レイディ・ウオンツ・トゥ・ノウ』という美しい曲がある。
この歌の中では彼女は「なぜ彼が去ってしまったのか」とずっと理由を知りたがっている。
十一月の寒い夜には、こんなマイケル・フランクスの温かい歌声があうだろうと思い、このレコードをかけると、バーの扉が開いた。
入ってきた男性は、コートを脱ぐと、スーツの上からでも胸板の厚さがわかった。おそらく若い頃にスポーツをしていて、今でも身体を鍛えているのだろう。髪の毛は短く刈り上げにし、真っ直ぐこちらを見て人なつっこい笑顔で「こんばんは」と言った。
私も彼の笑顔につられて少し微笑み、「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」と返す。
彼は目に付いた私のすぐ前の席に座り、鞄を足下におき、ネクタイを少しゆるめ、ゆっくりと店内を見回し、最後に私の方を見た。
「マスター、こんな注文ちょっと迷惑かもしれませんが、幸せな恋人たちにぴったりのワインって何かあるでしょうか?」
私は少し考え、「レザムルーズ、フランス語で恋人たちを意味するブルゴーニュのワインがありますが、いかがでしょうか」と答えた。
彼は最初の人なつっこい笑顔を見せて、「それでお願いします」と言った。
私がレザムルーズを開けて大きなリーデルのブルゴーニュ・グラスに注ぐと、部屋いっぱいに華やかな香りが広がった。
「このワインのエチケットは、オーナーの息子さんの奥様が描いているそうなんですが、彼女は日本人なんだそうです。一家全員が日本びいきらしくて、そこの蔵のレザムルーズはほとんどが日本に輸出されるということです。日本の恋人たちに飲んでほしいんでしょうね」
私はボトルを彼の前に置き、説明した。
彼はレザムルーズのグラスをゆっくりと回し、香りを吸い込みこうつぶやいた。
「こんな感じです。彼女はまさしくこういう気品があって、そしてとてもチャーミングな存在だったんです」
「こういう女性に恋をしたんですか?」
「はい」
「その彼女とはどこで出会ったんですか?」
「高校生の時です。クラスに女優をやっている女の子がいました。中学の頃からちょこちょこテレビのドラマとかに出てたんですけど、高校生になってからは映画で主役とかもやり始めてて。
高校だけは出ろって親に言われてたらしくて、出席日数ギリギリで時々学校には来てたんです。
彼女、本当に可愛かったんです。髪は真っ黒で肌は白く、目は少しだけつり上がったアーモンド形で、このワインのような華やかさがあって、しかも笑うと彼女の周りが一瞬にして温かくなるんです。輝いているというのはこのことだと思いました。
僕、彼女のことをすごく好きになっちゃって。彼女が学校に来て、教室で座っているのを見かけたら、もうそれだけで嬉しくて嬉しくて。
彼女と仲良くなれるなんて絶対にないってわかってたんですけど、帰りの廊下で彼女にすれ違った時に目があって、何か魔が差したのか、その勢いで『あの、お願いがあります。メールアドレスを教えてください』って言っちゃったんです。
そしたら彼女、『いいよ』って笑いながら言ってくれて、その場で携帯電話を鞄から取り出してメールアドレスを交換したんです。
他の生徒たちも周りで見てたみたいで、あっと言う間に話題になったんですけど、当然ですが、僕なんてちょっとした気晴らしだろうって言われてました。
撮影所にいっぱいいるだろうすごい売れているアイドルの男とは違って、僕は特別な未来も何もないただの青くさい男子高校生です。
でもそんなの関係ないぞと思い、家に帰って彼女が掲載された雑誌を見ながら、自然に、とにかく自然な文章で、なんでもない友達に話しかけるような言葉づかいで、と自分に言い聞かせながら彼女にメールしました」
「いいですね。若い頃の自分の恋を思い出します」
「すぐにメールが戻ってきました。
【本当にメールくれたんだ。ありがとう。私、全然学校行ってないからクラスで浮いてて。今、学校でどんなことが流行ってるか教えてもらっていいかな】
僕はあせっちゃダメだと思ったのですが、すぐに返信しました。すると彼女からもすぐに返信が来て、結局その夜は何度もメールを往復させて、あっという間に仲良くなりました。
彼女が知りたかった学校のことがとにかく話題になりました。どの男子が一番モテるかとか、あの女子は付き合っている年上の男子がいるとか、イジメられている生徒がいたけどみんなで助けた話とか、いろんなことを教えました。
彼女も仕事の悩みとか演技のこととかいろんなことをメールで教えてくれました。たぶんそんな話を出来る友達が撮影所や俳優の中には一人もいなかったんだと思います」
「そういうものでしょうね。女優という職業は周りはみんなライバルですから本当の悩みを聞いてもらえる友人が欲しいのかもしれません」
「半年くらいでしょうか。毎晩、彼女とメールのやり取りをしました。その頃から彼女は前よりも学校に来るようになったので、学校の噂はもちろん、売店のどのパンがおいしいかとか、あの先生のテストはこの辺りがよく出るとかそんな話をしました。僕はやっぱり彼女の大ファンで、彼女が出た雑誌は全部チェックしていたので、誕生日が今度の日曜日だということに気がつきました。
もうこのチャンスを使うしかない、これを逃したら一生後悔するって思って、彼女に思い切って【雑誌見たよ。今度の日曜日、誕生日なんでしょ。一緒にディズニーランドに行かない?】ってメールしたんです。
彼女も【いいね。私、ディズニーランド行ったことないんだ。行こう行こう!】って返してくれました。
僕の気持ちは最高潮でした。帽子とサングラスとマスクで隠せば誰も気づかないよ、大丈夫だよ、とか、ジャングル・クルーズは絶対に行った方がいいとか、そんなことをメールでずっと相談しました。
ディズニーランド行きの前日、土曜日の朝ですね、僕の自宅にスーツの男性二人組がやってきました。彼らは玄関で僕に名刺をくれました。名刺には彼女が所属している芸能事務所のロゴと社長の名前と担当マネージャーの名前があり、『長野くんですね。ご両親と一緒に女優の一条かおりのことをお話し出来ませんか』と言いました。
話はこうでした。彼女の携帯電話はずっと担当のマネージャーがチェックしていたそうなんです。僕と彼女の関係は、いろんな悩み事も相談しているようだし、友達としてならまあいいかなと思ってたらしいんです。でもデートとなると大きい映画の前にスキャンダルは困るということでした。
社長が言うには、一条かおりにはもう何億円も動いているし、事務所としてもこれからのCM出演や活動のことを考えたら、とにかく困ると。彼女のおかげで、小さい事務所のたくさんの人たちの給料が出ていて、それでその人たちの家族も養っているなんてことも聞かされました。
友達のままでいてもらうのは全然構わないんだけど、彼女が二十二歳くらいまでは一切のスキャンダルはナシでいてほしいから、ここは本当に申し訳ないんだけど、ディズニーランドは何か用事が出来たことにして、断ってくれと二人の大人が僕の家のリビングで突然土下座をしました。
一条かおりが成功するかどうかに小さい事務所の運命がかかっているそうなんです。
僕は二人が見ているその場で彼女に断りのメールをしました。
彼女はすごく楽しみにしてたみたいなのですが、あきらめてくれて。それから彼女はドンドン忙しくなって、僕も受験勉強が始まって、メールは途絶えました」
「それからは一切連絡はとってないのでしょうか?」
「はい。それでも僕、やっぱり彼女のファンでずっと映画もテレビも雑誌も全部チェックしていたんですけど、この間、雑誌に載ってた彼女のインタビューで気になる答えがあったんです。マスター、これ読んでもらえますか?」
〈私、高校生の時にすごい失恋をしたんです。すごく好きな男子がクラスにいて。私、もしかして両思いなのかな、もう女優なんてやめて、この人と結婚しようかなってずっと思っていたんです。本当に好きで好きで、学校はもう単位足りてるのに、スケジュールを調整して、彼に会いたいから学校に行ってたんです。
それで初めてのデートをしようって話になって、私の誕生日にディズニーランドに行くことになったんです。もう本当に嬉しくて嬉しくて。どこかでキスとかされたらどうしよう。この服で良いかなあ。そう言えば彼の私服って見たことないなあ。どんな格好で来るんだろうってずっと考えていたら、前の日に突然、【風邪をひいたから行けない】って一言だけメールが来て、その後、すごく冷たくなって。
私、何かしちゃったんだろうなあ、変なこと言っちゃったのかなあとかいろんなことを考えました。理由がわからないんです。でも私の初めての恋は終わったんだなって、お仕事頑張ろうって思ったんです〉
「そうですか。彼女、そんな風に考えていたんですね。それでどうされたんですか?」
「もしかして彼女のメールアドレス変わってないかもって思って、思い切ってすぐに彼女にメールしてみたんです。【久しぶりです。長野です。インタビュー読みました。話したいことがたくさんあります。もし良ければ今度どこかでお茶でもいかがですか?】」
「どうでしたか?」
「【お茶なんて行けません】って一言だけ戻ってきました」
「ああ、やっぱりそうですか。相手は有名な女優ですからね」
「僕、【そうですよね。なんか高校生の時の気持ちでメールしちゃいました。すいません。今はホントすごい女優になりましたね。今でもずっと一条さんの映画やドラマ観てます。これからも応援しているから頑張ってくださいね】って返しました。
その後、こんなメールが戻ってきたんです。
【お茶なんてイヤです。ディズニーランドに行きましょう。長野くんとじゃなきゃ行かないって決めて、私まだディズニーランド行ったことないんです。このメールアドレス、いつか長野くんからメールが来るかもって思って変えなくてよかったです】」
「ディズニーランドはいつなんですか?」
「明日です。日曜日です。ディズニーランドの帰りにまたこのワイン、彼女と飲みに来ますね」
そう言うと彼はおいしそうにレザムルーズを飲んだ。
後ろではマイケル・フランクスの歌う『ザ・レイディ・ウオンツ・トゥ・ノウ』がかかっていた。
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