生活と、縁と。
わたしはnote以外に、
メルマガ的な通信を配信しています。
(下にPDFを貼っています)
noteで出会ったクリエーターさんの記事で、
わたしのママ友への偏見が解けたため
例によって、
私の中の闇を照らし出す作業をしたわけです。
わたしが持っている
中途半端な修行から得た
生かじりの仏教的知識と、
世間に飛び交う種々の、
仏教由来の言葉の誤用との間にある隔たりによる、
居心地の悪さ。
還俗して後、
声高にそれは違うなどとは、言う性格でもありませんが、
noteの世界でも同様の、複雑な思いを抱いています。
わたしの中に、
わたしの意見と異なる見解に対して、
とても拒否的な感情を抱く一面があります。
そこは、そこそこおとなの反応ができるので、
表に出さずにいます。
そこについては、
noteの中のクリエーターさんや、
リアルワールドの周りの人たちとは、
うまく交わって行こうと思って、
争わないことでゆくつもりです。
閑話休題
合縁奇縁|《あいえん・きえん》
人の交わりには気が合う、合わないがある、
つまり相性がある。
これは、出会った瞬間に分かるもののようですが、
それもまた不思議な縁によるものだという考え方を、
合縁奇縁というらしい。
男女の出会いについてはさらに、ことわざ、
縁は異なもの味なものがある。
昔から男女の出会いは、
どこでどう結ばれるか分からない、
不思議な縁だと言われていますね。
言いたいことは、ママ友になるというのも、
立派な縁だと気づいたわけです。
そこにも合縁奇縁があるわけで、
十把ひとからげに、
ママ友のみんなが悪い訳ではないのに、
大事な相談は、ママ友にしてはいけませんよ、
そんなことを言ってたのです、わたしは。
偏見ですよ、これは。
人は生涯の中で、
数多くの人と「袖触れ合うも、多生の縁」
その縁が一生涯続くこともあるし、
この人はソウルメイトだ、みたいに思っていても、
些細なことで別れて、二度と会わなかったり、
こんな奴と思って別れた人と、
縁あって、生涯のお付き合いしたり、
出会いは不思議ですよね。
ママ友に相談したり、
相談を受けたりして、
孤独の井戸から救ってもらうこともあるわけです。
またある時は、
困っているママ友を勇気づけたりもあるでしょう。
生きていたら楽しいことも、
苦しいことも必ずあるわけで、
出会った人たちに助けられ、
ある時は自分が助けて、
人生を楽しく、
しあわせに生きていくように修行しているわけですよ。
一緒に。
その毎日が生活ですね。
どちらの漢字も「いきる」わけですが、
ただ生命を維持する生き方と、
自分らしさを活かす生き方とは違います。
漢字でいうと、活きるという字はサンズイ編です。
サンズイは、水に関わる漢字グループですから、
生活もまた、生き生きと、
清流の生き方をするのが良いわけで、
それでも、細々と流れたり、
時にはせき止められたりして生きていくわけです。
人生を線路と
その上を走る機関車になぞらえました。
分岐点で転轍機がはたらいて、
別の路線に移るとたとえました。
人生はまた、道であったり、
流れであってりもたとえられます。
生活という流れで考えると、
人生では
たくさんの流れと並行してみたり、
合流してみたり、
反対に分流してみたりするわけです。
孤立した流れはやがて、
枯れてしまうかもしれません。
たくさんの流れと合流を繰り返し、
一緒にとうとうと流れる方が
良いに決まってますよね。
わたしはそれが出来ないけれど、でも、
並行して流れるのは得意です。
合流した者どおし、
誰かの世話になるとか、ならないとか、
そんなの良いではありませんか。
お互い様、
より良い流れを作っていく、
ひとつの流れなのですから。
それが縁かな。
サポート、ありがとうございます。もっと勉強して、少しでもお役に立てる記事を送りたいと考えております。今後ともよろしくお願いいたします。