疲れ果てた末のつまづき~ゲシュタルトの祈り、もう一度
アカウント再生前と再生後
この9月末、
noteアカウントを消去してしまいました。
そのアカウントからの発信は、
SSWとしてのわたしからの記事でした。
自己都合で退職し、
仕事以外に没頭できるものを
持たずに生きていたわたしは
「自分」の拠りどころがなくなりました。
枝に残された抜け殻のような
そんな日々が続きました。
もっと前のこと
もともと、
SSWという「職人」仕事を
強い閉塞感の中で進めていました。
SVでもあったことが、ますます
わたしのこころを、縛っていました。
誰かに相談する機会はあっても、
自分の仕事上の苦悩を、
相談しようという気持ちさえも
持っていませんでした。
周りには、
心理士や医師が何人も居るのに。
校長先生や、種々のワーカーも居るのに。
唯一無二のパートナーに対しても、
相談はしませんでした。
言い訳としての相談しない理由
言い訳としては、わたしの苦悩は
支援事案と密接なものであったこと、
何よりも、事案のいくつかについて
情報を取得しただけではなく、
苦悩を共有する、あるいは、怒りを共有して
自分も巻き込まれてしまったのでした。
それは自己開示できないでいる
「自分の一番深いところ」に在る
わたし自身が抱え続けている苦悩であって、
他人事ではなくなってしまったのです。
もうひとつ、
相談相手として選べるのが仕事仲間だから
「中立の第三者」と認められない、
あるいは、
「守秘義務」を理由に、あえて相談しなかったのです。
本音としての相談しない理由
仕事仲間を信頼していなかったからです。
相談することで
自分の弱さや苦悩をさらけ出すのが
嫌だったんです。
もし、信頼できるなら、
自分の持っている特質は
良いものも悪いものもなく、
それ全体がわたしだと
みんなが受け入れてくれると思えたでしょう。
でも、そうは思えなかった。
今まで努力して見せてきた
自分のいつわりの姿を壊したくなかった。
壊してしまうと
みんなから嫌われるのではないかと
不安だったのです。
相談できない理由の確認
自分の弱さがみんなに知れることで、
その人たちがわたしから去って行くことを恐れ、
相談せずに悩みを抱え込んでしまいました。
もし、みんながわたしのことを、
丸ごと理解してくれているという自信があれば、
みんなが去ってゆくという恐れは持たなかったのに。
わたしのパートナーにさえ、
ありのままの自分をさらけ出せませんでした。
でも、今は、その事実を認めることができるように
わたしは変わったのだと思います。
大切に思う人に去られたくなかった
自分を否定していたことに、今は気づいています。
少なくとも、理解し、受け入れようと努めています。
わたしは、自分という人間が
周りの人が思ってくれているような
頑張っているわたしではないことを
一番よく知っています。
一番の不安はそれを、みんなに知られることです。
これまでわたしは、この弱さを
誰にも悟られないように背伸びして、
誰かがやらなければならないことがあれば、
率先して手を挙げ、取り組み、
それなりの結果を出してきた、
そう自負しています。
そのおかげでいつか、
みんなに選ばれるわたしになったのです。
すべては、わたしが大切に思っている人たちに、
わたしがつまらない奴だと見捨てられないためでした。
いつも自分で課題を求め、いつも全力で努力してきたのは、
そのためだったのです。
孤独と孤立
自分で選んで所属した小さな集団の中では、
この偽りの「自分らしさ」を発揮し続け、
頑固で、意見を変えない生き方をしてきました。
そのせいで変人だと思われ、言われても、
それを恥じることなく生きてきました。
なぜならこの評価は、
弱いわたしの本性を見透かされないための
強固なよろいになっていたからです。
ひとは、自分が選んでも居ないのに、
あるいは、そうせざるを得なくて所属する集団を持ちます。
どんな人でも、ひとりでは生きていけないからです。
そんな集団の中にいるときは、いつも、
「集団のほとり」に居ました。
繁華街を歩くときと同じ、
人混みの中に居るけれど所属はしていない、
あんな感じが持てる位置を探し出していました。
人混みと違って集団の場合は、
あまり離れると、声を掛けてくる人がいるからです。
呼ばれて行って、自分の役割がない場面を持つと、
人々と言葉を交わしたりもしないといけません。
しかし、
そのような経験が乏しいから、
どのように対応して良いのか、分からない。
その不安があるのです。いつも。
だから、周りを良く見て、
ちょうどよい塩梅の、集団のほとりに居る間合いを、覚えました。
集団に巻き込まれ、戸惑っているといつか、
化けの皮がはがれてしまう気がするからです。
不安をラップしている、嫌われたくない気持ち
わたしが大切に思う人にだけは、
嫌われたくありませんでした。
わたしはこれまでの生涯において
いつも特別な誰かをひとり、決めていました。
その人のことばや行動が、自分と呼応しているのを感じる人。
その人なら、ありのままのわたしを認め、
受け入れてくれるかも知れないという人を選んで。
しかし、人前で役割を果たしているときは、
その人に見てもらおうという気持ちは
念頭ではなく、片隅においていました。
一度に二つもの難しい事は考えられない、それがわたしです。
じょうずなウソ
小さい頃から、わたしはそのように、周りの人をだまして来ました。
ずっと周りのみんなを、じょうずにだまして来たので、
周りの人はわたしが、そのような人だと信じ込んでいます。
周りが信じ込んでしまったから、
わたしもまただまされて、そのような人であり続けていました。
そのような偽りに
わたしは、疲れてしまったのです。
サポート、ありがとうございます。もっと勉強して、少しでもお役に立てる記事を送りたいと考えております。今後ともよろしくお願いいたします。