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読書とは思考活動の一つである
思考とは、どのようなとき行われる活動だろうか。
部屋にこもって静かに悶々とするのが思考だろうか。
散歩しているときにふとアイデアが湧いてくるのが思考だろうか。
人は、実のところ、休むことなく思考している。
寝ているときでさえ、思考しているのだ!
朝起きて、頭がすっきりとして夜中いくら考えても出なかった答えがパッと得られた。なんて経験もあなたはしていることだろう。
当然のことながら、我々は読書をしているときもまた思考している。
そしておそらくそれは、映像作品や音楽をときの”感じ方”や思考とは異なる。
文字と対するとき、我々は筆者と対等であるかのような気持ちで”議論”する。
もちろん筆者の卓越した思考の前にひれ伏すことはあれど、そういう貴重な読書体験というのは稀で、たいていの場合、うんうんと唸りながら思考するのである。
そういう文脈では、負荷のない読書に意味はないのかもしれない。
負荷の強い読書における、思考はなかなか言語化が難しい。
だからこそ、じっくり自分と向き合い、目の前の本と真摯に対することは自己を鍛錬してくれるだろう。
何も考えていないようで、実は様々なことを考えているのだ。
だから、仮にすぐに言語化することができなくても、めげずに読み進めてほしい。
思考し続けてほしい。
言語化したいのにできない感情や思いや”あの何か”
それが重要である。
あの気持ち悪さを心地よく味わうようになったとき、君は立派な思考家である。
それでは、負荷のない読書は、本当に意味のない活動だろうか。
答えは、否である。
あなたは、どのようにして、自分を認知、”知る”のだろうか。
それは、好きなものは何か、嫌いなものは何かを分ける作業ではないだろうか。
そして、それらの事象は、自分の中と外の両方の領域に存在するのである。
つまり、既知の好みと、未知の好みがあるのだ。
負荷のある読書とは、未知の己を知るための思考活動であり、
負荷のない読書とは、既知の己を確認するための思考活動である。
すんなりと読めるものを本を手にしているとき、あなたは自分の人生の答え合わせをしているのではないだろうか。
読み進めるのが難しい本のときは、あなたはきっと新しい何かを習得しようとしてるのではないだろうか。
読書とは、思考活動の一つである。
思考を続ける限り、あなたは自由だ。
自由とは、なんの制約もなく、己を追求することの約束である。
読書は、自由のための契約書なのかもしれない。
鮑叔館 珠李