心に美学を。
良いことをすること、他者のために生きること、自分が報われなくても全体のために尽くすこと、誠実であること。
なぜ、だろうか。
どうして、自分の利益にはこれっぽちもならないことを好き好んでするのだろうか。
情けは人の為ならず、というけれどそんなの結果論に過ぎないし、こじつけでなしに心の底からそう振り返る人は全体の何割くらいだろうか。
でも、僕らはその選択をし続ける。
誰かのために生き、他者に施すことを厭わない。
それはきっと、
心に美学を持っているから。
だと、僕は思う。
端的に言えば、自分のためだけに生きることや、損得勘定だけで人生をやり過ごすことは”美しい”ことじゃないと、そう思っているからだ。
ある種の信仰に近いのかもしれない。
理系学生ならよく出会うことだと思うのだが、数学の先生だとかが口癖で「この解答は美しくない」と大真面目に言って、教室の幾人がニンマリする。物理の先生が遅れている授業進度をフル無視して、「世界は美しい」という話をするためだけでに一コマ使ってしまう。
そういうのと近い感覚だと思う。
だから、もし私が中学生くらいの子たちにお話をする機会があるのなら、
心に美学を持ちなさい。
という話をするだろう。
それ以上でもそれ以下でもなく。
そして、その場の一人か二人かでも、はっとするなら儲けもの。くらいの気持ちで。
ところで、周りを見渡せば、そうでない人間というのがごろごろとしている。
ついつい、僕らはそれに憤ってしまうけれど、彼らは単に心に美学を備えていないだけであり、”安っぽさ”が漂っていたとしても、我々が彼らを否定していい理由にはならない。
さらっと通り過ぎるだけで、そこで立ち止まってわちゃわちゃする必要なんてない。
まあ、そういう人もいる。
今の私には、まだ、彼の美学はわからなかったのだ。
程度のあっさりした向き合い方で十二分だと思う。
世界には、もっと残酷なもの、もっと美しいもので溢れているのだから、”そういうこと”で足を止めるのは、少し、ほんの少しもったいないことだと思う。
もっと、もっと、私たちは私たちの美学を追求するべきなんじゃないか。
なんて、おせっかいを焼いて、今日は締めくくろうと思う。
鮑叔館 珠李
PS.
最近、心の情景を写し出したくて、絵をはじめよう!と思い立ち、好きなイラストレーターさんの”模写”を始めたのが、これが楽しくって、楽しくって。
みなさんにもぜひ、おすすめしたい。
僕らが丁寧に文字を紡ぐのと同じように、点と線だけでとっても繊細な”表現”が行われているのがわかる。
やっぱり、自分で”表現”をやってみると、やる前とでは見え方が変わる。
そう、例えるなら、楽器を始めると聞こえなかった音が聞こえるようになる感覚とか、カメラを始めると見えなかった景色が一枚一枚の作品に見えるようになる感覚とか!
これが、”心の解像度を上げる”ということなのかな。