太平天国の乱〜北京条約締結
今日は、前回に引き続き、中国の近代史についてやっていきましょう!
前回はアヘン戦争の説明のみで終わってしまいましたが、今回はもうちょっと要約しつつ進めていきたいと思います!
アヘン戦争が終わっても、清は銀の不足に困り、増税しまくりました。庶民は不満が溜まりに溜まっています。
そこで現れたのが、イエスキリストの弟を名乗る洪秀全という男です。この男は自らを教祖として勢力を拡大し、太平天国という国を建国しようと挙兵します。これが「太平天国の乱」です。
太平天国のスローガンは、「滅満興漢」で、文字通り満を滅ぼし漢を興す、という意味です。太平天国はどんどん勢力を拡大し、ついには南京も占領。清政府はなかなか鎮圧出来ずにいました。
そこで、清は地方の「郷勇」という義勇軍やイギリス、アメリカの力を借りてなんとか鎮圧しますが、この太平天国の乱は、多くの漢人に勇気を与え、地位も向上させました。
さて、イギリスは、アヘン戦争後の南京条約に対して不満を持っていました。なんとかもう一度戦争する機会を伺っていたイギリスに、絶好の機会を与えてしまったのが、アロー事件です。この事件は、アロー号という船をめぐる事件で、はっきり言って中国にそこまで非はないのですが、戦争したくてウズウズしていたイギリスは、この事件を口実に、戦争を始めます。
この戦いが、アロー戦争、別名「第二次アヘン戦争」と呼ばれるわけですが、この戦いで、イギリスはフランスにも共同出兵してもらい、清を圧倒します。清は丁度その頃太平天国にもやられていたので、あっさり負けを認め、英、仏に非常に有利な「天津条約」を結びます。
しかし、これだけでは終わりませんでした。
天津条約に対して、清国内では不満が募ります。そこで、清軍は英と仏両国の艦隊を砲撃しました。両国はこれに激怒し、再度戦闘が勃発。北京まで侵攻され、清は、天津条約以上に不平等な、「北京条約」を結ぶ羽目になりました。この条約により、11港の開港などと同時に、香港近くの九龍半島南部を英に割譲することになりました。
アヘン戦争からずっと戦争や内乱によって苦しめられっぱなしで清はもうガタガタです。
今日はここまで。
ここまで読んでくださってありがとうございました。