えねーちけーアーカイブス #143 八月四日 満つ蝉
ながちろのオンライン作品を掘り出して再利用しようというNHKアーカイブス。第143回は「八月四日 満つ蝉」。
今年は一昨日の火曜日、9日にはじめて蝉の声を聞いた。アブラゼミだった。最近同じ話を書いた気がするが、人間の基準で考えれば、蝉とはおおむね「地中の生き物」であり、死ぬ前に子孫を残すためだけに地上に出てきて、交尾をして、卵を残して死んでいく。<人間の基準で考えれば、蝉とは>と書いた時点で矛盾が生じているが、ニュアンスは感じ取ってくださるかしらん。
とまれ、禍々しさの話。以下、虫の話も出ます(注意喚起)
つまり人間年齢にして70か80、生物としての寿命が尽きようというときに地上に越してくるのだとすれば、蝉にとっての死は地上に出た時点なのでないか、と想像することがある。
人間にとっての安直な表現で云えば「羽が生える」てのは「死ぬ」てぇのと同義であるからね。頭に輪っかがついたりなんかして。
で、本作はその羽化できなかった「死にぞこない」の様子に禍々しさを覚える話でありました。「禍々しさ」という概念をずっと追っている。グロテスク、恨、神聖さへの畏怖など、近接する観念にまでは行き着くが、禍々しさそのものに直接に渡る道が見つからない。が、わりあいに「無念さ」というのがより近いのではないかと「羽化しぞこない」を観察していて考えている。
昔、井の頭動物園でうっかり見つけてしまった毛虫塊にも同様の、気持ち悪さを通り越した禍々しさを感じている。いや、むしろこちらが発端である。なんの理由があって、この同種の虫たちは絡み合い、もつれあい、一個の塊となって蠢いているのだろう。
このあたりには、対象にたいする畏怖の念が明確にある。
みなさんのおかげでまいばすのちくわや食パンに30%OFFのシールが付いているかいないかを気にせずに生きていくことができるかもしれません。よろしくお願いいたします。