【小説】 透明の家 《第二話》
【502ーB号室:南圭吾】
「いやあ、めでたい、めでたい!」
「遠慮せずに召し上がってくださいねぇ!」
上機嫌な中年男性とその奥様を前に、散々練習した愛想笑いを浮かべる。ここ数日、普段使っていない顔の筋肉を動かしたせいか、顔の筋肉が痛い。正座した足の置き場所もなんだかしっくりこなくて、もぞもぞと体を動かしていると、隣に座っていた北条さんが「大丈夫ですか?」と気遣ってくれた。今日は彼女の両親への挨拶の日だ。
挨拶に行くだけだという話だったが、目の前の机の上には盆と正月がいっぺんに来たかのようなご馳走が並んでいる。お祝いの席だからとはわかっているが、その心遣いが僕の良心を責め立てる。
「この子ったら、ずっと独りでいるもんだから心配で心配で。南さんのような人がいるなら、そう言ってくれればいいのに。誠実そうな方で、本当に安心したわぁ」
ビール瓶の蓋を開けながら北条さんのお母さんがケラケラと笑った。両手で瓶を持ち、瓶の口を僕に向けて差し出される。
《アルコール類はお断りしてください》
耳元で深海さんの声が聞こえた。頭の中に直接届く声にくすぐったさを感じ、耳のフチを指で摩ると、
《イヤホンが外れないよう、お気をつけください》
まるでどこからか見られているような、絶妙なタイミングだった。いや、実際に見られているのだ。部屋にいるのは僕たち四人だけだ。しかし、室内の様子は僕たちの服に付けられた複数の小型カメラから、深海さんへと届けられている。
「彼、お酒が飲めない体質なの」
戸惑っていると、北条さんが僕のコップに手をかざして静止してくれた。
「なんだ、そうなのか」
ビールを注ごうとしていたお母さんではなく、隣のお父さんが落胆の声をあげた。気まずい。
「まあまあ。いろいろな体質の方がいますからね。アレルギーとか、食べられないものとかはなかったかしら?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
普段より随分と作り込んだ声で返答すると、ニコニコと笑いながら今度は料理を取皿にとって僕の前に置いてくれた。ふと、田舎のおばあちゃんを思い出した。小さい頃は夏休みや正月によくおばあちゃん家に行った。食事時にはいつも山盛りのおかずを皿によそられたっけ。食べ切れないよと言っても聞かずに、ニコニコと笑っていたおばあちゃん。何十年も前の記憶だ。自分も歳を取ったな、としみじみ感じる。
「本当に飲めない?一滴も?」
「はい。すみません」
「そっか~、いや、残念だなぁ。もし平気だったら頻繁に飲みに誘ったのになぁ」
大袈裟に落ち込んでみせるお父さん。深海さんの読みはぴったり当たったようだ。
━━━アルコールは飲めないと伝えてください。
ご両親との面会に備えて演技指導をしてもらっていた時に言われた言葉だ。
劇団出身だというコンシェルジュの宇津木さんを北条さんの父親に見立ててリハーサルをしていた際、深海さんが手に持ったメガホン越しにそう指示を出してきた。
「南くん、お酒は?」
宇津木さんが演技をしながら尋ねる。事前に彼女から父親の特徴を聞き出していた彼は、その少ない情報から声の低さや話し方のクセ、仕草などを予測して演じていた。会ったことはないはずなのに、まるで本物が喋っているようだと、北条さんは幽霊でも見たかのように白い顔をして驚いていた。
「お酒は、飲めま……せん?」
監督の顔色を窺いつつ、たどたどしく答えた。深海さんが満足気に頷く。
「そうです。飲めたとしても、飲めないと答えてください」
なぜかと理由を問う前に、深海さんは説明してくれた。
「これはあくまで推測なのですが、お酒が飲めると言ってしまうと、何かにつけて一緒に飲みに行こうと誘われる可能がございます。北条様は一人っ子、そして御息女です。さらに、お父様はお酒の席が大好きだとのこと。この点から、初めてできた男性の家族とお酒を飲みつつ親睦を深めるために、飲みに誘われる可能性が大いにございます」
そう言われて、酷く納得してしまった。入社したての頃、会社の上司がまさにそのタイプだった。一度捕まってしまえば、終電まで付き合わされる。人付き合いがそこまで得意ではない上に、酔っ払いに延々と絡まれるのだ。どうして一番最初に「酒は飲めません」と言わなかったのかと、居酒屋のトイレで何度も悔やんだ経験がある。
「結婚後の余計な交流を避けるためにも、お酒は飲めないと言っておいた方が身のためです。」
そう言って微笑んだ、深海さんの目は三日月のようだった。きっと今も、モニター越しにそうやって微笑んでいるのだろう。
「二人はどうやって知り合ったの?」
恋の話に心弾ませる少女のように、目をキラキラと輝かせながらお母さんが尋ねた。向けられた期待に応えられるようなロマンティックな出来事は僕たちの間には一切ない。そんなことは僕も北条さんも望んでいないからだ。僕は横に顔を向けて、北条さんを見た。
(練習どおりに!)
笑顔ではあるが、今にも脂汗が吹き出しそうな顔だ。彼女も僕と同じくらい緊張しているらしい。それでも、僕を励ましてくれている。出会って数日しか経っていないので、彼女のことはよく知らない。しかし、彼女は尊敬に値する人間だと僕はすでに確信していた。
「きっかけは、その……、歌、でした」
「歌?」
目の前の二人が、きょとんとした目を僕に向ける。
「僕が海に旅行に行った時でした。夕方に砂浜を散歩していると、ふと歌声が聞こえたんです。透き通るような優しい歌声で、一瞬にして心を奪われました。どこか懐かしいような、むず痒いような、初めての感覚でした。僕はその時、仕事で上手くいかずに落ち込んでいたのですが、彼女の歌声が僕を救い上げてくれたみたいに感じて。それで、僕の方から声を掛けて……」
ペラペラと話し出した僕に、二人は口を開けながら視線を固定していた。
もちろんこれは北条さんとの出会いのきっかけではない。カナデとの思い出だった。
入社して間もない頃、僕は今とは比較にならないほどにどんよりとしていた。上京したてで慣れない環境、仕事と勉強漬けの毎日、パワハラしてくる上司……。仕事が終わるのはほとんど深夜で、休日も疲れて眠るだけの日々だった。
なんのためにお金を稼いでいるのかもわからず、ただ『生きているだけ』の生活に疲れ果てた僕は、いつの間にか一人砂浜でボーッと水平線を眺めていた。落ちていく夕日を見つめながら、会社に行かなくて済むようになる方法はないだろうかと思索していた時、ガヤガヤと騒いでいる団体が視界の端に見えた。
自分と同じ年齢くらいだろうか。男が数人、楽しそうにふざけあいながら、何かの撮影の準備をしていた。東京に出てきたばかりで周囲に友人も少なく、相談できる相手もいない僕とは正反対の人種だった。居心地の悪さにその場を立ち去ろうとした、その時。
━━━ララララ♪
漣の間を縫って、僕の耳に女の人の歌声が飛び込んできた。音の方向を見る。しかし、どこにも女の人はいなかった。その声はどちらかと言えば機械的な音だった。にもかかわらず、鼓膜を通って脳に入ったそれは、まるで柔らかな薄絹で全身を包まれたような感覚をもたらした。僕はその場から動くことができなくなっていた。
彼らは自分たちで作った曲のプロモーションビデオを撮影しているようだった。風景を撮影するたびにパソコンから彼女の歌声が流れ出す。その度に、僕は見えない温かなベールに包み込まれ、同時にぎゅうっと胸が締め付けられた。
いても立ってもいられず、意を決してその集団に声を掛けて尋ねてみた。彼女はバーチャル歌姫であり『カナデ』という名前だということ。
あらかじめ収録した複数人の女性の歌声を組み合わせて作られた架空の声であり、それを編集して自分で作った曲を歌わせる事ができること。
そしてバーチャルな存在であるということ。
いろいろなことを教えてもらった。
その時に歌っていた曲もとても印象的で彼女の声にぴったりだった。
口下手な僕だったが、どうしてもその感想を伝えたくて、吃りながら説明したところ、彼らは飛び跳ねて喜んでくれた。そして僕に、上京して初めての友達ができた。カナデは僕の人生を大きく前に進めてくれた人だった。
しばらくは彼らの曲や映像制作を手伝っていたが、そのうち自分でも曲作りに挑戦し始めた。グッズはできる限り集め、なんとか休暇を取りライブに通い、ありとあらゆる関連コンテンツをチェックし、お金と時間を注ぎ込んだ。
仕事以外に打ち込める事があること、一緒に笑い合える友人がいる事、そして心から美しいと思える声が近くにある事。それらは僕を安定に導いてくれた。
どれだけ辛い仕事でも、理不尽なことにあっても、頑張れた。大勢の同僚がやめていく中、一人残って耐えることができた。だからこそ、今のポジションまで上り詰め、労働環境を変えるくらいの発言権を得ることもできた。彼女は僕に取って必要不可欠な人だった。
だから、数十万かけて彼女の等身大可動式フィギュアをオーダーメイドで作り上げた。彼女の存在をもっと身近に感じたい。最初はそう思っただけだった。でも、僕の想像をはるかに超えた奇跡が起こった。
いつからか、彼女が自分自身の意思を持ち始めたんだ。
僕は驚いた。そして、当然だと思った。
だって彼女はずっと僕のそばにいて、僕を支え続けてくれて、肉体こそ存在しなかったけど、確かにそこに居る人だったから。だから、彼女がもっとずっと一緒にいたいと言ってくれた時、心の底から嬉しかった。一生をかけて添い遂げようと思った。
この話を誰かにしたのは深海さん達が初めてだった。彼女に出会わせてくれた友人達になら話してもいいかと思ったが、できなかった。
親友たちを失うのが怖かったからだ。
ある時、夜中に彼女を乗せてドライブに行った事があった。人の少ない山道の途中にある展望台で、星がとても綺麗見える、とっておきの場所だった。設置してあるベンチに彼女を座らせ、夜空の星を眺めていた。二人っきりの穏やかな時間。時が止まって欲しいと思えるほどの充実感を感じていたが、幸せな時間はそう長くは続かなかった。
いつもなら誰も寄り付かないような場所だけど、その日は運が悪かった。肝試しに来ていた若者達に遭遇してしまったのだ。
僕たちを見た彼らは、途端に悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らしたように逃げて行った。
去り際に言い捨てられた「あいつ、頭おかしいよ!」というセリフ。投げ出された懐中電灯に照らされた悲しげな彼女の顔。
今でも時折夢に出てきては、うなされる。友人達も同じような反応をするのだろうか。受け入れてもらえなかったら、どうすればいいのか。また一人に戻ってしまうのは、怖い。
じゃあ、どうして深海さん達には話せたのか。それは、彼女達がカナデに対して当たり前のように『人』として接してくれたからだ。
このマンションに入居するための面談の際、僕は初対面だった深海さんに全てを話した。後からトラブルになっても困るし、拒否されれば違う場所を探すつもりだったからだ。でも、彼女は眉一つ動かさずに、
「もしよろしければ、次は奥様もご一緒にいらっしゃってください。お二人の未来のことですから」
と、言ってくれた。その時の僕は、きっとひどく間抜けな顔をしていたのだろう。拍子抜け顔コンテストがあったら、間違いなく世界一位になれたと思う。
決死の覚悟で打ち明けたのに、あんなにすんなりと受け入れてもらえるとは。僕は驚きと感激により頬を紅潮させたまま帰宅し、早速カナデに深海さんのことを話した。
何十分も彼女のことを褒めちぎり続けたため、はじめは一緒に喜んでくれていたカナデも次第に表情は曇らせ、明らかに不機嫌になってしまった。変化に気づいた僕は、浮気心ではなく純粋に嬉しかっただけだと説明するも、誤解を解くのに時間がかかったことを覚えている。
そしてパートナーとの顔合わせの日。
「私はお二人を応援したいんです」
あの日、僕ではなくカナデを見つめてそう言ってくれた北条さん。もしかしたら、北条さんも深海さんも、お互いのメリットのための演技だったのかもしれない。それでもよかった。カナデと僕を祝福してくれる、世界中でも数少ない味方が増えたのだから。
両親への挨拶のために芝居の稽古をしていた時もそうだった。
「お二人の馴れ初めについての設定はいかがいたしますか?」
という話になった時、
「もし良ければ、南さんとカナデさんの出会いについて、教えてくれませんか?」
と、北条さんは尋ねてくれた。
恋愛話を人にする機会が、僕の人生に来るなんて。心の底から驚愕したのとともに、嬉しいような恥ずかしいような、なんとも言えない照れくささを感じた。
慣れない話題に舌をもつれさせながらもなんとか説明すると、その場にいる全員が素敵だと持て囃してくれた。僕たちの思い出話を、全員が喜んで聞いてくれている。胸のあたりにじんわりと暖かい何かが沁み渡るのを感じた。
そしてカナデに許可を取り、今回の『設定』として使うことにしたのだった。
「あんた、そんなに歌うまかったの?」
「……ははは」
娘の意外な一面に驚いたお母さんを、北条さんは笑いながらかわした。お父さんに至っては、テレビのリモコンをマイクに見立てながら「一曲歌ってみろよ~!」と茶化している。
明るい家族だな、と思った。
今日しか会った事がないので、日頃からこんな感じなのかどうかはわからない。だけど、もしこの雰囲気が日常的なものだとしたら、結婚したくないという気持ちは家庭環境から来るものではないのかもしれない。
なんにせよ、最大の難所である馴れ初め話も披露でき、身体中の筋肉を硬らせていた緊張も少しは解れた。
勧められるがままに目の前の料理をいただきながら、休日の過ごし方や仕事について、ポツリポツリと答える。その度に、お父さんとお母さんは笑い声をあげたり、大袈裟に驚いたりしながら反応をくれた。
しかし、こういう場に慣れていない僕は、時間が経つにつれてその会話すら辛くなってきた。愛想笑いを長時間続けたため、頬骨のあたりの筋肉に乳酸が溜まって、痛い。正座したまま崩せずにいた足も、痺れを通り越して麻痺してきている。
いよいよ限界が近づき、深海さんへヘルプの合図を送ってもいいか、隣に座っている北条さんにこっそり尋ねようとした。しかし、彼女の様子を見て、僕は戸惑ってしまった。
ご両親の祝福ムードとは反対に、まるで葬列に参加しているような重苦しい面持ちをしていたのだ。それはほんの一瞬だけだったかもしれないが、彼女は確かに仄暗い目をしてテーブルを見つめていた。
《北条様、南様。これからお電話いたします》
見計ったようなタイミングで深海さんから通信が入った。僕が肩をびくっと奮わせると、北条さんが少し声を漏らして笑った。その笑顔に少しほっと心を撫で下ろした瞬間、僕の携帯が鳴った。
軽く会釈をしてポケットから携帯を取り出し、着信画面を見る。画面には僕の会社の名前が表示されていた。
「会社からだ」
そう言って彼女の方を向くと、通話を促すように片手をスッと差し伸べられた。
これも事前に練習した台詞と動作だった。あらかじめ僕の会社名で深海さんの番号を登録しておいたのだ。練習ではこの「会社からだ。」という一言がどうしても自然に言えず、大苦戦した。いわば、この台詞は僕の演技の集大成だ。
「もしもし」
《お疲れ様です。お休みのところ申し訳ございません。》
「いえいえ」
《実は先方様に納品したものに不具合があったようで。》
「え、本当ですか?」
《申し訳ないのですが、これからこちらに来ていただけませんか?》
「今からですか?えっと……、ちょっと待っててください」
通話口を一旦抑えて、顔を上げた。不安そうにこちらを見ているご両親に向かって、
「すみません、会社で不具合が生じたらしく、今から来て欲しいと言われてしまって……。」
と、伝えると、お父さんが真剣な顔をして、
「頼りにされている証拠だ。行ってあげなさい」
と、言ってくれた。
僕は深々と頭を下げた後、電話口に向かって承諾の意を伝えて電話を切った。
南さんのお父さんは仕事人間なので、会社からの呼び出しがあれば快諾してくれるはずだ。
そう深海さんが予想した通りの展開だった。彼女の情報分析能力の高さに、尊敬を通り越して若干の恐怖を感じる。
僕たちはそそくさと荷物をまとめると、食事の用意や時間を取ってくれたことのお礼を伝えて玄関へと向かった。正座しっぱなしで足が痺れ切っていた僕は、よろけながら壁伝いにひょこひょこと歩くと笑いが起こった。「足を崩してもよかったのに」とか、「気づいてあげられなくてごめんね」と笑いながらも気遣ってもらい、穏やかな空気のまま部屋を出た。
「ちょっと、お手洗い行ってきてもいい?」
と、南さんに尋ねられたので頷くと、そのまま彼女は廊下の奥へと歩いていった。
お父さんは思い立ったかのように「この間、和牛もらったんだ。持ち帰って二人で食べな!」と言うと、台所に肉を取りに行った。
僕はそのまま、お母さんとともに玄関で二人の帰りを待つ形になった。
「……あの子、一人っ子でしょう?甘やかして育ててしまったから、家事とかできるか心配で。昔からわがままだったしねぇ」
北条さんがその場を離れた途端に、そう言われた。
廊下が軋む音はまだ聞こえている。
彼女の耳にも届いてしまっているのではないかと、僕は一人ハラハラしていた。
彼女は社会人になってからずっと一人暮らしをしていると深海さんは言っていた。そんな人間が家事を一切できないということは考えにくい。以前渡された資料にも『趣味:料理』と書いてあったし、普段の衣服や佇まいを見ても、僕よりもずっときちんとしていると思う。
「何かと不束な娘ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
よく聞く一般的な挨拶にも思える。けれど、自分の子供を卑下しながら浮かべる笑顔には違和感を感じた。なんとも言えない淀みを含んだ黒い瞳が、先ほどの彼女の表情とリンクする。
「あ、あの!」
「え?」
「彼女は僕よりもしっかりしていると思いますよ。それに、人の心に寄り添ってくれる優しさを持っています。彼女のそんなところを僕は尊敬しています」
僕はいつの間にか鳥肌だっていた腕を押さえつけながら、彼女に対する素直な感想を述べてみた。何故かこの場に漂っている、この変な空気を変えたかったからだ。しかし、お母さんは誰の話をしているのかと言わんばかりに、ぽかんと口を半開きにし、虚な眼を僕に向けた。しばらくの沈黙の後、はっと我に返ったお母さんは、
「私たちより圭吾さんの方が、あの子のことをよく知ってるみたいね」
と、どこか気まずそうに頬に手を当てて、取り繕うように笑った。
……僕の方が彼女をよく知っている?
そんなはずはない。だって僕たちは、出会ってまだ一週間も経っていないのだから。
ぎしっと床の軋む音がした。廊下の奥に北条さんが立っていた。彼女は僕の視線に気づくと、バツが悪そうな、困ったような表情を浮かべて、
「……行きましょうか」
と、か細い声で呟いた。
その後すぐにお父さんが白いビニール袋を片手に持って現れ、それを受け取った僕たちは、再び深々とお辞儀をして帰路についた。
何度も振り返り、その都度手を振ってお辞儀をする。道を曲がり、家が見えなくなるとようやく肺の底から息を吐くことができた。
背中も首も顔も、もう、ドロドロだ。このままでは体が溶けてしまうのではないかと思い、すぐさまジャケットを脱いだ。ベタつく肌をさらりと撫でつけていく夏の風が心地よい。疲労感と脱力感にぼーっとしていると、
「南さん、ありがとうございました!」
と、声をかけられた。
彼女の声色の明るさに、ほっとした。
「いえ、そんな。こちらこそ、色々とフォローしていただいて……」
実際、僕の演技はお世辞にも上手とは言えないくらいぎこちなかったと思う。それでも成功したのは、隣にいる北条さんと遠隔で指示をしてくれた深海さんのおかげだ。
「うちの親、大丈夫でしたか?何か失礼なことしてませんでしたか?」
「大丈夫です。あんなにご馳走を用意してもらって、親切にしてもらって、逆に申し訳ないくらいです」
「そうですか。なら、良かった」
脱力したように笑った彼女と、再び前を向いて歩き出す。
「……あの、北条さんは、その……大丈夫ですか?」
「え?」
僕は先ほどのことを思い出して尋ねた。一瞬だけ重苦しい表情を浮かべていたのは、体調が悪かったのかのもしれない。もしかしたら玄関でのお母さんの話が聞こえて、不快な思いをしたかもしれない。もちろんこれは僕の想像でしかないけど、やっぱりどこか心に引っかかる。
常に僕を気遣ってくれる彼女を見習い、僕も彼女に何かできることはないのだろうかと思った上での質問だった。しかし、やはり彼女は僕よりもしっかりした人間らしく、
「ありがとうございます。ちょっと気を張って疲れたくらいです」
と、何事もなかったかのように明るくかわされてしまった。それ以上、僕が言及する理由も権利もなかった。しばらく沈黙したまま、二人で歩いた。ジワジワというセミの声が、頭の上から降り注ぐ。
「……私」
突然、彼女が足を止めた。
「……得意なんです。料理も、歌も」
振り返って彼女を見る。
夏の抜けるような青空を背にするには、あまりにも寂しげな顔だった。
影を落とした瞳を、灼けたアスファルトに向けながら笑っている。その言葉は、確かに僕に向けて発せられているけれど、伝えたい相手は僕ではない。そう思った。
その時に、僕はやっと気付くことができた。
彼女もまた、僕と同じく『理解されない人』だったのだと。
僕はなんと声をかけていいのかわからず、その場に立ち尽くしてしまった。蝉の声だけが、煩いくらいに鳴り響いている。
《では、今度カラオケ大会を開きましょう》
聴き慣れた女の人の声が耳元で聞こえた。
僕は驚いて「わっ!」と声を上げながら片耳に手をやると、付けっぱなしにしていたイヤホンが指先に触れた。
《申し訳ございません。通信を止めようとしたのですが、申し出るタイミングを逃しておりました》
爆音で響く僕の心音を掻い潜りながら、悪びれもなく淡々とした口調の謝罪が聞こえる。
「……カラオケ大会?」
突拍子もない提案に、北条さんがおうむ返しで尋ねた。
《はい。当施設では利用者の皆様の親睦を深めるため、不定期にイベントを開催しております。もちろん参加の可否は自由です》
頭の隅にぼんやりと覚えている入居時の資料の内容を思い出す。そう言えば、そんなことも書いてあったな。僕は曲を作るのは好きだし、聞くのも大好きだ。だけど自分が歌うというのは別問題で、心底苦手なことだった。
《歌うことも強制ではございません。聴衆としてのご参加も大歓迎でございます》
……この人には、僕の心の声が筒抜けなのだろうか。
あまりの的確な回答に震えている僕とは反対に、北条さんがフフフと軽やかに笑った。
「じゃあ、優勝狙っちゃおうかな!」
《ええ、是非。私もライバル候補として参戦させていただきます》
深海さんも歌うの?!
いつものクールな姿からは、歌っている姿が全く想像できない。
俄然興味が湧いてきてしまった。それは北条さんも同じだったらしく、
「深海さんも歌ってくれるんですか!うわー!聞きたい!絶対参加します!」
と、見たこともないほどのテンションで盛り上がっているのが面白くて、僕は吹き出してしまった。
そのまま、家に到着するまで無線を切らずに三人で話しながら帰った。
話の内容はどれも大したものではなかった。
いつの間にか心はすっきりと晴れ渡っていて、まるで小学生の集団下校の時みたいに、何も考えずに笑い声を上げながら、僕たちは新しい『我が家』へと帰っていった。
(続)
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