VRは「空間楽」を生んだ バーチャル建築家が思うVR,MRのこと
バーチャル建築家として活動してなんともうすぐ2年、番匠カンナです。
そろそろ一度、VRについて、そしてMRについて、いま考えていることを書いてみたいなと思ったので、ぶわっと書きます。
建築家が活躍するいわゆる”建築界”から来た人間として、xRの世界、こんなふうに見えてます。
VRは「空間楽」を生んだ
突然だけど私は、
「VRはすでに80%くらい、その目的を達成している」
と考えている。もちろん、デバイスやプラットフォームやコンテンツの開発者からすると「発展途上で全然一般に広がっていない」というのが共通認識だと思うけど、VRの存在意義という点においては、もう既に素晴らしいことになっている、と思っている。
ひとことで言うと、
VRは人類史上初めて、音楽や文学と同列の「空間楽」を生んだ。
個人の内なる衝動により存在を与えられる空間が、ついにあらわれた。
このことがどれだけすごいことか、あまり語られていないように思う。
空間というものはこれまで、誰もが作るものではなく、まして趣味でつくられるものではなかった。
古代では王族が気の遠くなる年月と奴隷の力で呪術的空間をつくった。
ルネサンス期になると富める者のパトロネージュのもとで職業としての建築家が確立された。
近代においては国家が競って民族統合や国威発揚のための空間、あるいは大量生産される住居などの空間をつくった。
現代では企業や裕福な人がクライアントとなり、オフィス、住宅、商空間などあらゆる空間がオリジナルであることを求められデザイン対象となった。
建築プロジェクトが細分化されるとともに、担い手としての建築設計者にも、誰でもなれるようになった(結果として全国の大学で毎年大量の建築学生が育っている)。
このように徐々に身近になってきたとはいえ、依然として空間をつくるにはお金と時間と労力がとんでもなくかかる。
だから歴史のどの時点をみても、専門教育とは無縁の個人がただの遊びとして空間をつくることは、《シュヴァルの理想郷》のようなヤバい人の事例を除けば存在しなかった。
で、VRはここにド派手に切り込んできたと思う。人類はその手元に、いつでもこねこねできて誰かの現実になる、白紙の空間を手に入れたのだ。
背後に制作ツールの民主化(Unity, Blender等)とVRプラットフォームの勃興(VRChat等)があることは、前にどこかで書いた。
動画・音楽制作ツールとYoutubeやニコニコ動画などのメディアが揃ったことで、人類は誰でもいつでも好きなように2次元+時間の表現ができるようになったことの、次元がぐっとあがったものだと思えばわかりやすいと思う。
単に3次元+時間になった以上の、インタラクティブでソーシャルで人々が生きる場所そのものの創作が可能になったのだ…!
というわけで、VRは今後も無限のイマジネーションの受け皿として百花繚乱の発展を遂げていくことが約束されている。
だから私は「VRはすでに80%くらい、その目的を達成している」と強く思う。
空間と人間との、自由な関係
「空間楽」の登場によって、空間のあり方が変化しはじめている。
よくバーチャルな建築というと「重力ないから自由な表現できるよね!」という話が最初に出てくるけど、実はそれはあんまり大きな変化じゃない。
リアルな建築物も組積造から鉄骨造への進化の過程でどんどん重力から自由になっているので、その変化の”向き”自体は有史以来ずっと一緒だ。
それに、いまみんなが楽しんでいるVR空間のほとんどは重力がある現実空間に極めて酷似している。重力がない世界というのは、人間の生物としての形や外界の認知方法が変わって、脳も社会も全ての構造が変わった世界であって、そこではようやく「重力がない自由な表現(?)」があるかもしれない…。
あるいはゲームエンジン等ツールの進化によって空間表現の可能性が飛躍的に上がったことも、ゲームの世界で以前からできていたことがVRの登場で現実として体験できるようになった、と言ってしまえばそれだけ。(いやそれはすごい革命的なことではあるんだけど…)
では私が感じる大きな変化って何なのさ?というと、
限られた目的のためだけに空間が存在できるようになったこと、がすごい。例えば「AくんがBちゃんにプロポーズするためだけの空間」が存在し得るようになったこと。これって、本当にこれまでなかったこと。
リアルの空間は有限。そしてつくるコストも壊すコストも大きく、通常一度つくった空間は長期間使う。
一方、人間の活動は多様で、かつ変化していく。結果として少ない空間がより多くの人のさまざまな活動を包括的に担うことになる。
つまり、リアルな空間は多かれ少なかれ「みんなのための多目的な箱」でなければ成立しない。限られた特定の目的のためだけになんて、つくれない。
オフィスフロアや展示会場などの”がらんどう”はもちろん、住宅のリビングルームも個室も、公共施設のロビーやホワイエも、わりと特定の用途に特化したように見える劇場空間やトイレの個室でさえも、十分に「みんなのための多目的な箱」なんだ。
これに対してバーチャルな空間のほとんどは、もっと解像度の高い、特定の集団による特定の目的のためだけにつくられている。
誰かの誕生日を祝うために建物も景色も小物も全部無からフルスクラッチされた空間や、少人数がただ共通の好きなものに囲まれてだらだらするための空間、棒にまたがって飛ぶというただひとつの動作が気持ち良いということだけのための空間など、現実ではコストに見合うわけもない空間が大量につくられている。すごい。
……と、ここで、ちょっと立ち止まる。
同じことを、どうしていわゆる"現実"ではできないのだろう?(いや、コストがっていう話を自分でしたけどね?)
どうして判で押したような狭く白い箱のなかで暮らし、毎日同じ場所を行ったり来たりして、街のほとんどの場所は誰かのもので進入できず、自分の理想の空間や風景など夢のまた夢で、こんなにも制限された空間に縛られて生きているのだろう。
本来、人間と空間との間には、もっと自由な関係がありえるんじゃないの? 両方に「間」ってついてるし。という気持ちになる。
バーチャルに来て気づいたこと。空間の形状や視覚的なデザインが自由になったこと以上に、そもそも空間って人間にとって何なのよ?というわりと根源的なところから変化が起きていることを、伝えたい。
小さな現実のパッチワーク
話は少し変わって、リアルな空間や建築というものは、どんなものでも必ず「公共性」を帯びるもの。個人住宅ですら住人の完全な私物ではあり得なくて、楳図かずおの「まことちゃんハウス」が景観を壊すという理由で近隣住民から訴訟を起こされたりする。
なぜこんなことが起きるのかと言えば、現実がひとつしかないから。
現実が唯一つで人類共通である限り、そこに何かを存在させるということは、望まれざる誰かの目に触れることを避けられない。
それは困るということで「とにかく軋轢を避けること」を第一目標に掲げてしまうと、残念ながら「誰も特に何も思わない世界」へと進むことになる。
例えば数十万人の税金で建てる公共建築は数十万人の直接目に見えないクライアントがいることと同じで、「数十万人が誰一人文句を言ってこない」を目指すと創造は死ぬ。特にSNS登場以降は個人の発信力が高まっているので、軋轢が以前よりも簡単に起きやすくなっていて、行政も過度に慎重になる。空間をつくるという本来夢のある作業が、将来的に受けるかもしれない無数の仮想クレームを潰す作業に変わってしまったりする。
こういうことは、建築に限らず、公共性の母数が大きい場所ではどんな業界でも起きているよね。
あるいは、ちょっと視点を変えて、ひとつしかないこの現実に対して、「不特定多数の人間に”売れる”こと」を目的とした空間もまた、「みんなの最大公約数な均一」に向かってしまう。
人間の身体や生活様式や感情の起伏みたいな平均を抽出しやすい変数から「人類共通の気持ちよさ」を割り出すことで、「脊髄反射的なスマホゲー」も「木のぬくもりで心地いいテラス」も同じように生まれてくる。そんな感じで都市も郊外も田舎も、生活も風景もどんどん"より良く"均一になる。(原宿新駅が郊外の駅と変わらないものに建て替えられてしまったり)
「それが社会だ、その制約の中で新しさや面白さを地道に見つけていくんだよ(迫真)」と先生的な人は良く言ってくる……うん、まぁ正しいけどさ。
でも、xRの本質が、現実が複数になる、あるいは多層になるということなのであれば、こういう均一化の逆に行けるかもしれなくない?
例えば「同じものが好きな10人」だけが自分たちだけのための空間をつくると、平均から遠く離れた極めてヘンテコなものが生まれ得る。つくる主体・楽しむ主体の人数が減るほど、より強く変な(かつ、往々にしてより理解されない)ものが存在できる。
「小規模インスタンス」では存在していいものの幅が広がる。
もしかすると、それは閉鎖的な村の集合体になってしまうかもしれない。でも、それが完全に閉じた排他的な村ではなく、共感したり参加したい人をいつでも受け入れる魅力的なドアを持っているとしたら、なにかそういう小さな現実の集合体が「新しい公共」になり得るんじゃないかなと思う。
なんというか、めちゃくちゃ個性的な現実群が無限にパッチワークのように広がる世界を、毎日ルートを変えながら練り歩きたい。
たぶん、VRの一部では、既にできていること。
MRは「よりウザいひとつの現実」へ?
最後にちょっとMR/ARの話。
いわゆる”現実”と密接なMR/ARは、VR以上にいわゆる”現実”を含めた形で世界を楽しくできる可能性を持っていると思う。
なのに、私はいまのところまだその気配をあんまり感じていない…。
MRといえば、Keiichi Matsudaの《HyperReality》という映像作品がよく引き合いに出される。現実の上にさまざまな情報レイヤが付加された、きらびやかでうるさくてSFな日常の風景。
ここで描かれているのは「小規模インスタンス化した豊かな現実群」の真逆の、単なる「新たな、よりウザいひとつの現実」なのだけど、案外純粋にこの風景にワクワクしてたり、ここで描かれている技術や世界観を実現したいと思っている人が多そうな気がして、ちょっとというかだいぶ怖い。(この作品はどう見ても警鐘として描いていると思うんだけど…)
看板やサインが不特定多数にむけて意味やメッセージを投げつけてくる今の都市と本質的に何も変わらない旧世界だよねこれ、としか思えない。
MRはまだ、最下層レイヤであるいわゆる”現実”自体を変えること・変え得るということについて、あまりアイデアがないような感じがする。
”現実”を不変のキャンバスとして、その上にどう情報レイヤを付加して、便利に、新たなビジネスチャンスをつくるか、未来っぽくてかっこいい感じにするかみたいなことに留まってしまうと、行き着く先は《HyperReality》の風景っぽいなぁと。
それなら「情報表示や装飾は個々に最適化されるからリアルな建物は全部白い箱でいいよね」みたいな夢のない話ではなくて、”現実”を面白くすることにリソース割けるようになったね、やったね!みたいな感じでやっていきたい。
MRがむしろMRでは直接いじれない”現実”の空間をどう変えていくの?
家具、部屋、家、都市、郊外、田舎、交通などの構造がどう根底から再編されて、結局それでどう楽しくなるの?みたいなこと考えてみたい。
あ、VRへの興味もわりと同じ。
(そういうの考えるお仕事あれば連絡ください)
(その規模の実験できるとしたら2025万博とかWovenCityとかかなぁ)
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というわけで長くなったけど、バーチャルに来て2年弱経って、私はこんなことを思いながら”いろんな現実空間”の設計のお仕事をして生きてます。