川と湖とハノイ
ふと、雨上がりの匂いがした。
僕の生まれ育った土地には、大きな川があった。小学校の校歌にも、中学校の校歌にも、川に関する描写があって、僕個人の人生においても、振り返れば、その川にまつわる思い出が、否応なく想起される。
その川は、とても長くて、数キロごとに何本もの橋が架けられている。その橋の一本一本に、幼少期からの思い出がこびり付いている。良いものもあれば、良くないものもある。ぼんやりとした情景だけが脳裏の片隅に浮かび上がることもある。
ハノイには、湖が多い。Hanoiの、「Ha」は水、「Noi」は中、という意味だと、ベトナム人に聞いたことがる。とすれば、この町は、「水の中」という意味になる。
市内に点在する大小に湖には、その規模に関わらず、人々が集い、語らい、何かしらの活動をしている姿をよく目にする。そうやって、日常は思い出へと昇華されてゆく。
川も湖も、形は違えど、それは「水」によって形成されていることに変わりはない。人は、水のある場所に集う。
僕は、川や湖に、雨が降り注ぐ様を見るのが好きだ。水面に雨粒がぶつかって、「ザザザッ」と音を立てる。まるで雨の粒を弾いたかのようなその音が、なんだか心地よくて耳を澄ます。水と水とがぶつかり合う音に、耳を澄ます。
雨も川も湖も、みんな同じ「水」なはずなのに、それらが、ぶつかり合って、音を立てて、そして最後には一つになる。
子供の時は、そんなことを考えもせずに、ただボーっと川を眺めていたし、ベトナムに来てからも、ハノイの喧騒に踊らされて、滅多にそんなことは考えない。
だけれど、社会隔離中の今は、思考する時間が膨大にあるので、普段は考えないことに、神経を注ぐことができる。
体験が思い出へと変換されるためには、こんな必要な時間なのかもしれない。ただただ、意味にないことを考える時間が、良い思い出を作るためには、必要なのかもしれない。
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