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This is my destiny

「This is my destiny」

差し出したミネラルウォーターを一口、口に含んでゴクリと飲み込むと、彼女は、曇りのない表情で、やけにあっけらかんとした調子でそう言った。あたかも、それが悲しい話ではないかのように。

彼女の古いボーイフレンドの話をしていた時だった。異国から来た男性と恋に落ち、交際を重ねた。しかし、その実、男性には母国に妻子がいて。

これもまた必然なのか、一時帰国を期に、音信不通となった。あるいは、この国ではよくある話なのかもしれない。

フィリピンで出会ったその女性は、その一連の出来事を、「destiny」つまりは、運命という言葉で方付けようとしていた。

その様子に悲壮感はなく、どこか他人事のようにさえ思えるほど、さっぱりとした口調で。

ミネラルウォーターを入れたグラスが、彼女の小さな手には大きすぎて、両手で覆うようにして持つその姿が、まるで無邪気な子どものように見えた。

陽気だとか、ポジティブだとか、そういった類の言葉では説明しきれない、ある種の諦観のようなものが、彼女の放った「destiny」という言葉から、垣間見えたような気がした。

それがフィリピン人という人種に起因するものなのか、この国の国教であるキリスト教の影響なのかは、わからない。あるいは、彼女自身の持つ性質(のようなもの)なのかもしれない。

しかし、もし日本人女性が、彼女と同じ境遇に陥ったとして、それを運命という言葉一つで説明しないであろうことは、容易に想像することができる。

だからだろう。僕は、彼女が陥った境遇と、それを話す時の仕草や表情、そして「destiny」という言葉に、どこか、チグハグな違和感を感じていた。

あるいは、日本語の「運命」と英語の「destiny」の間には、直訳では埋めがたい齟齬が存在するのだろうか。

感じた違和感の正体を探るため、彼女に、本当にそう思っているのかと聞きたくなったけれど、それは野暮だと思い、喉元で言葉を飲み込む。

僕の目に映る彼女は、ちっとも悲しそうに見えなかったし、何より、彼女の「destiny」つまりは、運命を壊してしまいそうだったから。

それから、思い通りいかないようなことが起こると、「これも運命なのかな」と感じることが多くなった。心の中でその言葉を呟く度に、フィリピンで出会った彼女のことを思い出す。

彼女は今もどこかで、自分の「運命」を受け入れながら、あっけらかんと生きているのかなぁ。




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