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はじまりの、ほんの少し、前

もう少しだけ。

終電まであまり時間は無いけれど、もう少しだけ一緒に居たい。恋愛の、はじまりの、特有の気持ち。

どちらからともなく、駅近くの、オーセンティックなバーで、あと一杯だけ飲もう、そこで次の約束をして、気持ちよく帰ろう、そんな空気。

泊ろうか、なんていうセリフは、未だ無粋に感じる。そんなタイミングって、あると思う。

◇◇◇

ウイスキー、少し詳しいんだ。選んでもいい?

特に銘柄の拘りは無いし、ストレートでバーボンくらいは、何度も経験がある。

その申し出に、嬉しさが込み上げてくるのを感じて、頷く。

あ、でも、以前バーで飲んだ…飲まされた、の方が正しいけど、バーテンダーさんに言われるまま飲んだ、ラフなんとかというウイスキーは、厳しかったなぁ…

◇◇◇

『お待たせしました。ボウモアと、ラガヴーリンです。』

終電間際のバーは未だ混んでいて、テーブル席に案内された僕らの席に、バーテンダーさんが小さなグラスを2つ、運んできてくれた。

初めて聞く名前。一回では覚えられない。

私は先にラガヴーリンを貰うね。両方味見して、感想を教えて?

そういわれて、ボウなんとか、と聞いたウイスキーを、鼻に近づける。先に香りを確認するくらいは、僕も作法として知っている。

そして、眉間にシワが寄ったのを、実感する。これは、あのいつぞやの…

『だめだった?』

彼女が寂しそうな、でも、少し嬉しそうな、複雑な顔でこちらを見る。

◇◇◇

うん。これはラフなんとかだ。もう何年も前なので、強烈な香りのイメージしかないけれど、僕が知っているウイスキーとは、全然違う香り。

でも、彼女が選んでくれた香り。

『これはね、アイラ島っていうところのスコッチでね、最初はキツイと思うんだけど、慣れると癖になるんだよね』

『そうなんだ。スコッチ…名前は知っているけど、気にして飲んだことは無かったなぁ…』

そういいながら、再び鼻を近づけてみる。やはり強烈な…ブリーチ?正露丸?そんな香り。でも、その中に、何となく甘い香りもある。

『飲んでみて。飲めなかったら、別のを頼むから。』

そういわれて、ほんの少し、口に含んでみる。強いアルコールの刺激と、特有の香りと一緒に、ヒンヤリとした甘い液体が、舌の上に流れてくる。

『あ…』

無意識に声が出る。これは…おいしい。もっと色々な感想が頭に浮かぶけれど、パッと表現するだけの知識がない。うまく表現出来ない、というもどかしさを、初めて感じる。

再び鼻を近づけてみる。さっきは嫌な香りしかしなかったのに、より複雑な、色々な香りがあるように思える。

『こっちも、味見してみて?』

◇◇◇

新しい発見と知識、同じ感覚の共有。お互い同じ想いなのだと実感できた、楽しい時間。

『お客様、大変申し訳ございませんが、閉店のお時間でございます』

そんな言葉で終わりを迎えた時間。そうだ、次の約束をしなければ。

テーブルで会計を済ませて、荷物を抱えて立ち上がろうとしたときに、ふっと、彼女と目が合う。

『この近くに、美味しいお店があって。今度…来週!来週の金曜に、食べにいこうよ。中華好き?』

先に言われてしまった。中華…もっと洒落た、イタリアンとか考えていたけれど、きっと美味しいのだろうな、中華。

『…うん。好きだよ。ありがとう。』

◇◇◇

それぞれ別の地下鉄へ向かい、終電へと急ぐ人混みに流されながら、小躍りしたい気持ちを抑えて、今日を振り返る。

何だっけ…

ボウ…

ラガ…

ぴこん。

『ボウモアと、ラガブーリンだよ♪』

緑のアイコンと共に、スマートフォンに表示されるメッセージ。

ニヤけちゃうでしょ。こんなの。




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