呼名
人。行き交う、人、人、人。
わたしはそれを、見ている。
流れる。
ひそ、ひそ、ひそ…
誰かがささやく。
わたしはそれを、聴くともなく聴いている。
ぽつねんと、井戸、井戸、井戸。
水底に、蛙はいない。
わたしはそれを、見てもいない。
東。
日が昇る空。
西。
日が沈む空。
右手にコーヒー。
取っ手の付いた器に入っている。
私はそれを、飲むともなく飲んでいる。
左手は、ポケットに。
いつでも出せる。
家の鍵が、指先に触れる。
息、息、息…
息をしなくちゃ。
しようと思わなければできない、息を。
緑。
風を受けて揺れる。
独り。
真に受けて、暮れる。
戻り、吸って、戻り、吐いて。
種を蒔いて、ここを出て。
ばねを巻いて、跳ね回る。
金を撒いて、どこかへ入り
また種を蒔き、そこを出る。
老人が、紅茶を啜る。
焼き菓子が崩れて、床にこぼれる。
私はそれを、見るともなく、見ていた。
石臼で挽いたコーヒー。
わたしはそれを、ひとつまみ
匂いを嗅いで、口に運んだ。
ざらつく、舌。
否。
溶けて、なくなった。
それは、コーヒーと違う。
わたしはそれの、名前を知らない。
だから、くれてやったのだ。
それ以来
わたしはそれを、呼んでいる。
そのときくれてやった名前で、呼んでいる。
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