はぐらかしの慎み
対面とか接触が前提の仕事をしてきた人は、いきなり家に閉じこもっても、やれることなんてないと思ったかもしれません。
それでも家で仕事をすることになったとしたら、何ができるでしょうか。
私が真っ先に思いつくのは、ことばを読み、ことばを書くことです。
つまり、読書して、思ったこと考えたことを書くということです。もちろん、形式が読書と執筆以外でもいいでしょう。
読んだり書いたりといったことは、家でもやれる可能性が高そうです。もちろん、家では子どもの世話や言動が妨げになって、言葉を読んだり書いたりなんてのはむずかしい、とおっしゃる人もいるかもしれません。環境によって左右されるのは、これに限ったことではないでしょう。
それはそれとして、それでも、かなり極端に不便な状態であっても、ことばを読んだり書いたりはできる、少なくともその工夫は可能であるとしておきましょう。『アンネの日記』なんてものもあるくらいですから。私がいうのも憚られるたとえですけれど。
ことばではなかったものを、ことばで伝えるということへの不慣れ。それが、「家でできることなどない」という論理のおおもとである場合が多いのではないでしょうか。
ことばは手段です。お箸をつかうことは、食べ物を口に運ぶ手段です。自転車にのることは、移動や発散のための運動の手段です。おなじように、ことばをやりとりすることは、何かの手段であるはずです。だから、やってやれないことはない。できないとしたら、きっと不慣れなだけなのだと。
私としては、「家で仕事しよう」なんてなったら「ヨッシャー」です。いえ、私がことばという手段によって何かすることに長けている、流暢であるなんてことを言うつもりはないのですけれど、それでも、それは基本的な手段だから、シンプルになったな、と思うのです。
対面や接触を断たれて、ややこしいことになった、むずかしことになったと感じることはあると思います。それは私にもわかります。でも、一方で、それは形式上の困難だと思うのです。
ただただ引き延ばして、場を冗長にしてはぐらかし、何もなし得ないことばはノイズです。ノイズどころか、場合によっては時間やお金を無駄にする過失かもしれません。ことばを扱うことに慣れるほどに犯しがちがちな、私が一番反省すべきことかもしれません。これに他人を巻き込んでしまうことはあってはならないでしょう。「個人ならいい」はずもありません。私が生きているのも、大なり小なり他者からの搾取あってのことだからです。搾取という表現が適切でないかもしれません。協調とか、助け合いとみなすこともできる。どちらの側面もあることを承知していることが、賢さであれよと…。
それを愚かさにしてしまう、その可能性と表裏一体でありながら。
お読みいただき、ありがとうございました。
青沼詩郎
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?