生きる作為
社会はうねり、変化しつづける。そこで変わらないでいようとしたら、そのうねりに、流れに負けないように踏ん張るとか、適切に舵取りをするとかいった手を下す必要があるだろう。変わらないでいるためにだって、ある量の「がんばり」が必要になる。
がんばれの押し売りはいらない。けれど、変わり続ける環境や状況、社会の中で、これだけは保とうとか、変わらないでいようとするのならば、それを自分で決めたなら、自分で必要なぶんの「がんばり」を自分で抽出する必要がある。自給自足、というのもおかしいかもしれないが、抽出に必要なエネルギーを、やっぱり摂取し続けないことには踏ん張りはきかない。
がんばるのは疲れる。ほどほどでいいやとも思う。だけれど、その「ほどほどにいい」状態でいるためにだって、手を下す必要がある。努力として認識されるような特別なおこないには見えないかもしれない。ただ、ある量の「がんばり」として認識できる側面をここでは強調したい。
「歩く速度でいく」のだって、そうだ。まず「歩く」なんて、その元気がなきゃできないし、そのための身体能力を要する。「身の丈でいる」のだって、未成年のうちは勝手に身長だって伸びて行くかもしれないけれど、大人になって、油断すれば背中は曲がり、姿勢が悪くなっいく。そうでなくとも、筋肉は衰える。かわりに脂肪が増えるなんてあるあるもある。ないない?
食べて、動いて、眠って、寝ていたのにまた起き出して。それって、生きる努力だ。仮に、待っていれば目の前に食事が出てくる状況に自分がいるとして、さらにはそれを口に運んでもらえるとしても、それを内蔵に収めて消化吸収するのは自分だ。自立神経の仕事かもしれないけれど。それを特別な努力とは言わない向きもあるかもしれない。
それはそうと、自分は死んだっていいと思っていたって、とりあえずおなかが減って何かエネルギー源に手を伸ばすことだってありえるはずだ。それって、生きる努力と言ってもいい。いや、やっぱり違うんじゃないかとするならば、「生きる作為」でもいい。生き続けるには、ちょっとした「作為」が要る。長い目で見たら、それは死に向かう「作為」かもしれない。
私は33歳だ。冬の冷たい風を切って、陽光を浴びながら自転車に乗っていて、ふと最近思った。私はあと60回春を迎えられるだろうか? ずっと続くはずもない人生の規模感をふと思った。「こんな風に過ごしたい」という春は、多くてもあと60パターンくらいしか実現できないかもしれない。実現のための特別な「作為」を行使しなけりゃ、60パターンどころか1つや2つだって実現しないかもしれない。何を望むかにもよる。若いうちに限られる企画も考えうる。
さて、ちょっとがんばろうか。また春が、近い。