『戦闘技術の歴史4 ナポレオンの時代編』創元社、2010年

日本語版監修者序文

淺野明

「古代編」に始まり、「中世編」「近世編」と続いた「戦闘技術の歴史』も、いよいよ本書「ナポレオンの時代編」で西洋編が完結となります。

ナポレオン戦争とは、ナポレオン・ボナパルト(一七六九~一八二一年)が総司令官として指揮した一連の戦争をさしていますが、この戦争が近代戦争の始まりを画したといわれているのは、周知のことでしょう。のみならず、一八世紀末から一九世紀初頭にいたるこの時代は、西欧諸国の国家と社会、ひいては世界の構造までも大きく変えていくことになる、世界史上の一大転換期でした。その原動力となったのは、いうまでもなく、フランス革命に代表される市民革命と、イギリスで始まった工業化(産業革命)の進展でした。前者は、中世以来の身分制の秩序を打破し、平等の権利を持つ市民から構成される市民社会を生み出しました。また後者は、これまでの農業中心の社会から、資本家と労働者の関係を基本とし、機械化された工業生産が社会の基幹産業となる資本主義社会を生み出しました。この二つの変革をとおして、わたくしたちの生きる現代社会がしだいにかたちづくられてくるのですが、ナポレオン戦争にも、歴史の転換期であることを示す特徴、つまり新しい要素と古い要素が、ともに顔をのぞかせています。

「近世編」の読者のみなさんにはすでにご承知のことと思いますが、近世の戦争は多くの場合、国家間というよりは、王朝間の利害対立に端を発するものでした。軍隊は国王のために働く傭兵であり、その実態も傭兵隊長の私兵に近いものでしたから、そこには国家や国民に対する愛や義務の観念が欠けていました。というよりも、国家と社会の仕組みが身分制に基づいていましたから、権利と義務を同じくする「国民」といえるようなものがそもそも存在せず、したがって人々のあいだにも、「同じ国民としてひとつの国家に属している」という共通の帰属意識が希薄でした。このような状況ですから、多くの人々には、王朝が始めた戦争を「自分たちの戦争」と考える理由がありませんでした。実際、戦争に直接の利害関係を持つ人々も限られていましたし、戦域も比較的狭く、戦闘政治的・経済的に重要な都市や要塞の争奪戦、つまり攻囲戦となるのが普通でした。たまにはなばなしい会戦があったとしても、いくらか干戈(かんか)を交えたあと、いずれかの側が戦場から退けば、それで決着がついたものとされるのが普通だったのです。

しかし、フランス革命を境に、戦争の性格は一変します。なぜなら、革命によって政権を握ったフランスの市民にとって、戦争は革命で打ち立てた自分たちの政府を防衛するためのものであり、一つひとつの戦闘が、国家の存亡をかけたものとなったからです。ですからここでは、敵を戦場から退かせるだけでは十分ではなく、その軍事力を破壊して再起不能にすることが必要でした。この課題を果たすために、「合理的な」思考法で問題を突き詰めて考え、徹底的に練磨した軍隊をもって、その結論をためらうことなく実行に移したこと、いいかえれば、戦争と戦間についての認識と観念を根本的に改めたというところに、戦争史におけるナポレオンの画期的な意義があるといえましょう。プロイセンの軍人で、一八一二年には、ロシア軍参謀としてポロジノでナポレオンとあいまみえたクラウゼヴィツ(一七八〇~一八三年)が、その名著『戦争論』のなかで、戦闘概念の本質を成すものは、敵戦闘力の撃滅であると定式化したのは、まさにこのような事実に基づきます。いまや戦争は、王朝の利害や威信の誇示を目的としたものから、諸国家間の容赦のない殺戮戦へと変貌していくことになります。

まず、戦闘のありようが、それまでとは大きく変わりました。フランスとその同盟国軍からなるナポレオン軍は、プロイセンやオーストリアを中心とする対仏同盟軍と比べると、兵力では概して劣っていましたし、ほとんど常に複数の戦線で戦わねばなりませんでした。このためナポレオンの軍隊は、種々の兵科からなり、それぞれが十分な戦力をもつ数個の軍団に編制されていました。命令が下されれば、各軍団はそれぞれの駐屯地から、しばしば驚異的な速度で各戦域に分進して、戦闘態勢の整わない敵を各個撃破しました。また会戦になれば、各軍団の協調行動により、限られた兵力を敵の弱点に効率よく集中させて、敵の戦列を分断崩壊に追い込みました。これらの課題を確実に遂行するためには、すぐれた情報収集・分析能力に加えて、組織力と機動力、さらに高い士気とはずれた戦闘能力が必要でしたが、革命を機に根本的に再編され、徹底した教で鍛え上げられたナポレオンの大陸軍は、これらの点で、旧体制に基礎をおいていた他の諸国の軍隊よりも、はるかに高いレベルにありました。

しかし、ナポレオンの戦い方の画期的な意義は、戦場から撃退したあとにもあります。戦列を撃破された敵が退却を始めると、彼は、ただちに騎兵を中心とする予備兵力を投入して敵を徹底的に追撃し、二度と立ち上がることができないように殲滅しようとしました。そのためには速度が重要ですから、戦死傷者の収容が後回しにされることもまれではありませんでした。戦場での勝利(戦術上の勝利)はすでに確定しているのですから、旧来観念にしたがえば、これは無意味な殺戮であり、非人間的な行為だったでしょう。しかし、ナポレオンとフランス国民にとって、これは論理的に要求される当然のことでした。すでに述べたように、革命体制を敵視する諸国に包囲されていたフランスにとって、相手を再起不能に陥らせない限り、戦争における勝利(戦略上の勝利)はありえなかったからです。一連の戦闘は、革命の成果を守るための余地のない戦いでした。少なくとも、当事者たちにはそう思えたのです。市民革命の成果の守り手が、旧時代を象徴する皇帝であるという矛盾に満ち状況も、この限りで十分に理由のあることでした。ナポレオンの下で、戦争の性格が防衛戦争から他国に対する侵攻に変わり、戦争の勝利がナポレオンの帝国と権力を強化する結果になったとしても、それでも多くのフランス国民は、彼の敗北を期待するわけにはいかなかったでしょう。

同時期に進展した兵器の改良もまた、「敵戦闘力の撃滅」という課題に応えるものとなりました。とくに火砲(大砲)の発達が決定的だったといえましょう。途方もない重量で巨大な砲身を持つ初期の火砲は、ひとたび据えつけられると移動させることは困難で、もっぱら攻城砲として、それも実質的な効果というよりは、むしろ敵の恐怖心をあおり、戦意を喪失させる精神的な効果が期待される兵器として使われていました。しかし、その後の改良により軽量化されて性能も向上した火砲は、歩兵と一緒に動できる兵器となり、野戦でも使用されるようになります。のみならず、一八世紀後半に散弾が考案されると、砲撃される側にとって、その脅威は急速に高まってきます。ところが、そのように改良された敵を前にしても、味方の歩兵の大半は、あいかわらず戦列歩兵として隊列を組んで戦うことをやめるわけにはいきませんでした。なぜなら、装填に時間がかかり、照準の精度も低い小火器の性能に制約されていた当時の歩兵は、持てる銃火を効率的・集中的に使うためには、中隊大隊ごとに隊列を組み、お互いに適度な距離を保ちつつ、状況に応じて隊列を組みかえることが必要だったからです。さもなければ、敵の攻撃、とくに騎兵の恐ろしい襲撃から身を守ることができなかったでしょう。しかし、機動性を高めた火砲が、発射速度を速めるとともに照準の精度も上げてくると、隊列を組んだ歩兵の集団は、結果的に、敵による大量殺戮に手を貸すにひとしい戦術となってしまいました。フリートラントの戦い(一八〇七年)がその好例でしょう。この戦いで、歩兵の掩護も受けずに大胆な機動を実施したフランス軍砲兵隊から、一三〇メートルあまりの至近距離でに散弾速射を浴びたロシア軍は、わずか二〇分あまりで四千以上の兵士を失って壊滅しました。すぐれた指揮官とよく訓練された部隊が、火砲を集中的に、そして巧みに使用すれば、圧倒的な戦果を挙げることができると証明されたわけです。同種の事態は、六年後のリュッツェンの戦い(一八一三年)でも再現されました。火砲の改良と新の開発により、砲兵が、歩兵や騎兵と並ぶ兵科として自立していく過程について、くわしくは本書をご覧ください。

本シリーズの特徴のひとつは、戦闘のリアルな再現にあるといえます。なかでも異彩を放っているのが海の描写でしょう。本書でいえば、ナポレオン戦争中の最大の海であった「トラファルガーの海戦」(一八〇五年)に関する詳細な叙述が、とりわけ注目されます。予測が難しい風向風力に決定的に拘束されるため、帆船によ海戦には、合理的な作戦計画の立案に大きな制約がありました。したがって、地上戦とは別の意味で、当時の海戦には大きな困難と危険が伴ったことが、本書をご覧いただければすぐに理解できます。戦艦同士が、ときにはわずか五〇メートルあまりの至近距離で、お互いの舷側砲による激しい砲撃戦を展開したのですから、その恐怖は想像を絶するものだったでしょう。それどころか、お互いの索具(さくぐ)が絡み合うほどに接近することもあり、この場合には、古代以来の接近移乗による白兵戦も追求されました。しかしその前に、これほどの至近距離なら、戦闘楼から撃ち出される散弾が、甲板で身をさらしている兵士や乗組員たちに対して恐るべき力を発揮したでしょう。イギリス海軍の司令官ネルソンもまた、小型カロネード砲による狙い撃ちに倒れたのでした。

とはいえ「トラファルガーの海戦」は、帆船による大規模な海戦としては最後のもので、ここでも、ナポレオン戦争が時代の転換期にあったことが示されています。蒸気船はすでに一八世紀後半に出現していましたが、ほぼ一〇〇年後の一九世紀末には、外洋航海でも、これが帆船を駆逐していきます。またこれよりも少し早い時期に戦われた南北戦争(一八六一~一八六五年)では、鋼鉄による装甲船も出現していました。これらはいずれも、一八世紀後半にイギリスで始まった工業化とそのいっそうの進展を前提にしたもので、海戦に関する限り、本書にも書かれているように、ナポレオン戦争は、近代戦の始まりをしたというよりは、むしろ古い戦闘様式の掉尾を飾るものであったといえるでしょう。

ヨーロッパ大陸におけるナポレオンの支配は、徴兵制の施行や、階級制度における身分制の廃止と能力主義の採用などの革命の成果に、彼の軍事的な才能が加わって達成されたものでした。それにしても、結局のところ力に依拠するこのような優位性は、そう長く続くものではありません。実際ナポレオンの利も、その多くが甚大な損害を伴うものでした。そのうえ、対仏同盟に結集した諸国も、プロイセンに見られるように遅ればせながら社会改革と軍制改革に取り組み、その結果、少なくとも軍隊編制に関する限り、短期間にフランス軍とさほど色のないものになっていきます。そして、ただひとつ対仏同盟軍に欠けていた指揮・統率の一元化がはじめて実現したライプツィヒの戦い(一八一三年)で、ナポレオンは敗北して帝位を退き、ひとつの時代が終わることになりました。

その後二〇世紀に入り、二度の世界大戦や核弾頭を搭載した大陸間弾道ミサイルの開発などによって、戦争は再びその様相を一変させました。それでも、いまなお戦争は絶えることがありません。政治の手段のひとつとして一定の有効性を持つ限り、戦争がなくなることはないでしょう。そうであるなら、他のことがらと同様、戦争についても歴史に深く学ぶ必要があります。その場合、具体的な戦争の過程について、さらには軍隊そのものについて、理性的に研究することがとても大切です。戦後のわが国の西洋史学界で長らくタブーとされてきた軍事史研究も近年ようやく本格的におこなわれるようになってきました。「軍隊と社会」をキーワードに、軍隊をそれぞれの時代と社会のなかに多面的に位置づけようとするこれらの研究は、しばしば「新しい軍事史研究」あるいは「広義の軍事史研究」と呼ばれます。これらの研究はもちろん非常に重要ですし、今後ますますさかんにおこなわれるようになるでしょう。しかしその一方で、戦争と軍隊の問題を主題とする「古典的な軍事史研究」、「狭義の軍事史研究」は、わが国の西洋史研究においては、いまなお事実上タブーであり続けているように思われます。近年の軍事史研究が、その「新しさ」、つまり古典的な軍事史研究とは異なるものであるということをしばしば非常に強調しますが、まさにこの事実こそ、軍事史研究が、わが国では現在もなお、きわめて冷淡な扱いを受けていることの証左といえましょう。

しかし、軍隊をあれこれの社会集団と区別するもっとも重要な要素、いいかえると軍隊の本質的な要素は、まずなによりも戦闘集団としてのその性格にあります。つまり、日常に暴力(武力)に接し、したがってまた、その暴力を理性的にコントロールすることを貴務としている集団というところに、その本質があります。そうであなら、軍隊を、まずその本質的な側面から追究することが欠かせないでしょう。それはとりもなおさず、具体的な戦争のなかで軍隊を研究するということにほかなりません。クラウゼヴィッツは、戦争の実相を知るためには経験が非常に重要であることを強調しつつ、鍛え上げられた軍隊がいかなるものであるかを知りたければ

「(ナポレオンが訓育し、みずから指揮した)軍隊が激烈を極める頑強な砲火のなかに毅然として立つ姿をまず知っていなければならない。我々は単に想像しただけでは、とうていこのことを信じ得ないだろう」

(篠田英雄訳『戦争論 上』岩波書店)

と述べています。これをわたくしたちの言葉でいいかえると、軍隊の本性は、まさに具体的な戦闘のなかでこそ知ることができるということでしょう。そうであるなら、ナポレオンと直接戦った職業軍人でさも、その目で見るまではとうてい信じられないだろうといっているものを、二〇〇年以上のちに生きるわたくしたちは、せめて書物で学ぶ必要があるでしょう。戦争と軍隊の本質に触れようとすれば、なによりも狭義の軍事史研究を前提にしなければなりませんし、戦争という過酷な現実に正面から真摯に向き合う姿勢も、そのような研究に支えられてこそ、信頼のおけるものとなります。そのためにも、戦闘技術という軍事史研究の基礎を解明した本シリーズが、多くの読者のみなさんにうけいれられることを、心から願ってやみません。

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