『紳士の国のインテリジェンス』川成洋著、集英社新書0401、2007

はじめに

スパイ作戦とは、二つの成功がともなって、その任務が終わる。まずスパイ作戦自体が スパイによって遂行されたという痕跡をまったく残していないこと、そして実際の行為者であるスパイのカバー(偽装)や、その正体が暴露されていないこと、この二つが完全に クリアされていなければならない。

このような困難な任務に、しかも命がけでつく人が果たしているのだろうか。たとえ任 務が成功してもしかるべき社会的認知や評価を受けられないにもかかわらず、それなりに 人材に事欠かないのである。スパイになる動機は、国家や国王または民族に対する忠誠心 や使命感、金銭や財産、冒険心、英雄主義、名誉心、あるいはその本人しかわからない動機など、さまざまで一概に特定できない。その故にというべきか、敵陣営でのスパイの摘発も一筋縄ではいかないようである。

スパイは記録されている人類の歴史とほぼ同じくらい古い。例えば、『旧約聖書』の 「出エジプト記」のモーゼは、脱出するユダヤ人の安寧を確保するために一二人のスパイ 事前に「約束の地」 カナンへ送り込んだ。また「ヨシュア記」によると、モーゼの後継者ヨシュアに遣わされた二人の「斥候」は「遊女」の家を隠れ家とした。このエピソード から「スパイは売春婦に次いで、世界で二番目に古い専門職」という言葉が生まれたようである。そして「士師記」に登場するイスラエルの怪力・豪勇の士師サムソンの愛人デリ ラはペリシテ人のスパイだった。さらに時代は下るが、ウェセックス<イングランド>の 賢王と謳われたアルフレッド大王 (八四九?~八九九年)はデーン人の侵入に備えて、自ら吟遊詩人に変装してデーン人部隊の最前線基地を偵察した。また、インドのムガール帝 国のアクバル皇帝(一五四二~一六〇五年)も、四〇〇〇人もの托鉢僧をスパイとして近隣諸国に遣わした。さらに一八世紀のプロイセン<ドイツ>のフリードリヒ大王(一七一 二~八六年)は、自分が雇ったスパイの人数を自慢して、あるフランス軍の美食家の将軍 をからかい、「一〇〇人ものコックが奴の後について行く――だが、脱の前には一〇〇人ものスパイが前進している」と冗談を飛ばしたという。

こうした「戦時」や「非常時」といった国難に際して、スパイが暗躍する例は枚挙に暇なしだろうが、残念なことに、彼らはおしなべて臨時のスパイにすぎず、「平時」になれば、その苛酷な任務から解放され、痕跡すらなくなってしまう。

ところで、「スパイの最先進国」の異名を持つイギリスの場合は、経験主義と保守主義を標榜していることから、少し事情が異なっている。イギリスでスパイ組織が初めて公的な国家機構として組み込まれたのは、一六世紀後半のエリザベス朝(一五五八~一六〇 三年)だった。その立役者は、なんといってもイギリス秘密情報部の初代長官サー・フラ ンシス・ウォルシンガム(一五三〇?~九〇年)だった。

ウォルシンガムは、エリザベス朝イングランドの国家的な建て直しに多大な功績が認められているが、それ以上に、秘密情報部の在り方、とりわけ人材の発掘などに揺るぎない 指針を確立したのである。スパイ要員として厳選される者は、イングランド、否、ヨーロ パ屈指の名門大学である、一二世紀創設のオックスフォードや、一三世紀創設のケンブ リッジの在学生が卒業生だった。この「オックスブリッジ」と呼ばれている両大学の、当時の学生の平均年齢は一五、六歳と若く、洗脳しやすい年齢だった。そのうえ彼らの出自 は、「サー」以上の称号を持っているか、それに準じた、経済的にも豊かな家系に限られていた。つまり、これほど由緒ある特権階級の家柄の出であれば、あえて祖国に弓を引かないだろうし、加えて「オックスブリッジ」の卒業生であれば、教養や外国語などの優れ即戦力を当てにでき、やがて官・政・財界にも幅広い人脈が期待できるようになるからである。これこそ、現在に至るまでのイングランドの世界戦略を担う秘密情報部の揺るぎない伝統であり、「紳士だからこそ、汚い仕事に手を染めることができる」という、パラドキシカルな矜持なのである。

ちなみに、ウォルシンガムは、文筆を生業とするような若手の逸材をスパイとしてリク ルートした。判明しているだけでも、例えば、当時、飛ぶ鳥を落とすほどの絶頂期にあっ 若手劇作家クリストファー・マーロー、スコットランドの詩人ウィリアム・フォウラー、 脚本家で俳優のアンソニー・マンディなどの名前があがっている。

こうしたウォルシンガム長官を先達とする伝統が、それ以降連綿として続いたとはいえ ないが、「平時」はともかく、少なくとも「いざ、鎌倉」となれば、底流としてあるイギリスの経験主義がスパイ組織の再興・構築に大いに寄与したのは間違いなかろう。

ヴィクトリア朝イギリスが「七つの大洋を支配している」と豪語し、「パックス・ブリタニカ(英国の支配による平和)」という誇り高い言葉が世界中を闊歩していたが、あの大西洋の小さい島国、ヨーロッパ辺境の小国が武力だけで、あるいは外交的手腕だけで世界の覇権を握れるはずがないのであり、これを可能にしたのは、世界中に広がっているス バイ・ネットワークであろう。

さらに興味深いことに、二〇世紀になって、ややマイナスイメージを帯びている「スバイ」という言葉が使われなくなり、それに代わってもともと「知性」や「情報」を意味 する「インテリジェンス (intelligence)」という用語が使われるようになった。といって も、『オックスフォード英語辞典(OED)』によると、この「インテリジェンス」は、すでに一六〇二年刊行のマーストンの『尊師アントニオ』という評伝の中で、「秘密情報を獲得するスパイ」あるいは「秘密情報を掴むこと」という意味で使われている。それ以降、 「インテリジェンス」はしばしば文学作品などに散見される。

ところで、日本語で「情報」を意味する「インフォメーション」とこの「インテリジェンス」とは、どう違うのだろうか。アメリカ人の情報論研究者ジェフリー・リチェルソン の言葉を借りるなら、「インテリジェンスとは、外国あるいは海外の地域に関わる入手可 能なインフォメーションを収集、処理、統合、分析、評価、解釈する結果得られた生産物 である」(野田敬生『諜報機関に騙されるな!』)。それ故、最近では、わが国の政府、外務省当局も「インテリジェンス」という用語を公の場で使っているようである。ついでな がら、「スパイ」という言葉は、同じく『OED』によると、名詞も動詞も、なんと古く、 すでに一二五〇年ごろの『旧約聖書』に使われていたようである。

二〇世紀初頭のイギリスで、本格的な秘密情報部内務省保安部 (Military Intelligence 5 元来は陸軍情報部第五課だが、現在は軍とのつながりはない。略してMI5) と海外秘密情報部 (同じく陸軍情報部第六課、略してMI6、公式名はSIS)が創設されたが、この両組織のイニシャルの「I」は、「インテリジェンス」である。また、 第二次世界大戦期にアメリカ北東部の名門八大学、いわゆるアイヴィーリーグの卒業生で 良家の子弟たちが、イギリスで「インテリジェンス」の訓練を受けた。これらの訓練生の人選もやはりイギリス方式であった。彼らの教官役を果たしたのは、いうまでもなくMI5とMI6だった。戦後アメリカに帰国した彼らは、一九四七年に創設されたアメリカ中央情報局(CIA)に入局する。もちろん、この組織のイニシャルの「I」も、「インテ リジェンス」である。

イギリスのスパイといえば、世の男性の嫉妬と羨望の的となった、格好のよい、いわば 文武両道の、007シリーズのジェームズ・ボンドを思いうかべがちであるが、実際のところは、知力よりも男としてのセクシーさが勝るボンドとは異なり、まさに「インテリジ フェンス(高度な知性)」のある側面が主流を占めているのである。そして、いささか繰り返しになるが、有能なスパイの要件とは、任務遂行の痕跡を残さず、正体がばれず、情報を外部に漏らさないことである。必然的にスパイの情報は限られたものになるが、そんな 限られた情報に基づいて、信頼に足るものだけを取捨選択し、さながらジグソーパズルを はめていくように、彼らの実像に迫ったつもりである。

本書は、スパイを二つの相対立する立場、「祖国に尽くしたスパイ」と「祖国を裏切っ たスパイ」に分けた。いずれも、さすが「紳士の国のインテリジェンス」という言葉がぴ ったりの、したたかなスパイたちである。

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