『軍事組織の知的イノベーション: ドクトリンと作戦術の創造力』北川敬三著、勁草書房、2020
感想
論文集。なので同じ本でも同じ内容が何度も出てくる。真面目に読むと学習効果がハンパない(笑)
ただ、その肝心の「同じ内容」が無味無臭の抽象論になっているのがなんとも…
具体的には「作戦術」のことだが、作戦術の有難さを語るばかりで、軍事戦術や戦略、そもそも作戦術に通じていない人間については何のことだかさっぱり。この本の読者なんか本職の軍人さん以外に何人いるんだろう…
ちなみに、そもそも作戦術の位置付け等に関しても、客観的な検証はなく、ただのおじさんの思い込みや、世間で言われていることの受け売りに過ぎない。
あと、著者の思考が湾岸戦争で止まっている。アフガニスタン・イラク戦争での失敗への言及はない。ただただ、アメリカ賛美、というか、作戦術とドクトリン賛美だけ。
あと、日本語が下手(笑)
序章 軍事組織における知の創出
プロローグ
1945(昭和20)年9月2日、日本湾横須賀沖に停泊中の米国海軍戦艦ミズーリ艦上で、日本は連合国との降伏文書に調印した。同日、日本の海軍省は新たな動きを見せていた。大東亜戦争戦訓調査員会が設置されたのである(1)。同委員会が、同年10月9日に提出した「大東亜戦争戦訓調査資料 一般所見」の「第一章:敗戦の原因と之が因由」に次のような文面がある。
同委員会は、陸海軍の対立及び日本海軍における政戦略の連繋不足及び人材の欠如について指摘したのである。
この人材養成に関する懸念は、すでにその2年前の戦時中に指摘されていた。米内光政海軍大臣の秘書官を務め、大東亜戦争開戦時に在米国海軍部間補佐官を務めた元海軍大佐の実松譲によると、1943年に海軍大学校長を務めていた及川古志郎大将は、京都学派で知られる高山岩男京都帝国大学教授に対し深刻な表情で次のように語ったという。
及川が学校長を務める海軍大学校は、日本の海軍の高等教育機関であり、及川自身を含め日本海軍の主要なリーダーはほぼすべてがその卒業生であった(4)。その及川が高級軍人教育の欠陥を認めているのである。自ら同校で学び、連合艦隊司令部参謀を務めた千早正隆は、「戦争と戦闘を混同するという重大な誤りを犯すようになった根本的な原因」として害軍大学校の教育の在り方を批判した上で、大局に立脚してものの本質を見誤らない教育の大切さを説いている(5)。さらに、前出の実松は、海軍大学校教育を「国の礎に対する識見の錬磨を怠り、法律や軍事の末端技術面に専念した欠陥教育」と自ら受けた教育体験をもとに述べている(6)。オリジナリティを軽視する画一化された教育は、柔軟な思考を否定することになった。要領を呑み込むことがキャリア形成のポイントとなり、不測の事態と不確実性の高い状況下で独自の判断を要する場合には十分に機能しなかった(7)
戦争は、政策や政治の延長として、考え抜かれた行為とされる(8)。各国の軍事組織は時代の変化、環境の変化、そして敵の変化に直面し、さまざまな問題を解決していかなければ目的を達成することができない。しかし、昭和期の海軍軍人のみにその敗戦の責を負わせるのは適当だろうか(9)。及川、実松や千早が慨嘆した海軍教育の欠陥は、教育の前提となる日本海軍の知的態度に関わっているのではないか、という疑問が本書の出発点である。
1 本書の問題意識──軍事組織における知的態度と方法論
この「知的態度」とは、問題解決の方法論の構築を重視し、独創性と柔軟性を担保しつつ、「戦争の術と科学(art and science of war)」を探求する姿勢をさす。日本海軍の最大の欠点は、適切な「方法論(methodology)」を開発して向上させ、そのイノベーションを続ける組織変革のシステムに不備があったことではないか。そして、現代の軍事組織がそれを回避するにはどうしたらよいか。軍事組織といえども、組織の一形態である。その分析は、一般の組織にも応用できるのではないか。
では、問題解決の方法論に求められるものとは何だろうか。政治学の観点から野村康は、社会科学における方法論とは、手法やリサーチ・デザインの活用について理論的指針を提供するもの、とする(10)。さらに、「リサーチ・デザイン」を、研究の問い(リサーチ・クエスチョン)に対する答えを導き出すために、(複数の)手法を方向付けて、得られる知見を一般化する道筋を示し、研究を論理的に形作るもの、としている(11)。
経営学の観点から野中郁次郎らは、方法論とは理論構築についての理論であり、現象の本質を洞察し概念化する者、すなわち概念創造力、とする(12)
また、学際的な観点から佐藤可士和は、広義のデザインとは意匠的な技術ではなく、思考法であり、「ビジョン」を設計することと定義する(13)。さらに、包括的なデザイン戦略により、トータルな視点が問題解決につながると述べている(14)
これらの定義を踏まえ、本書が扱う方法論を「軍事組織において独創性を導出する概念創造力」とする。情勢の変化に柔軟に対応する任務を負っている軍事組織に独創性が求められるとするならば、方法論の探求は時代を超えて続けられるだろう。そのため本書は、軍事組織が組織変革、すなわちイノベーションのシステムをブリトインし、どのように方法論を進化させ続けるのかを解明することを目的としている。
…
軍事組織における問題解決の方法論を明らかにするため、本書では、まず第I部において19世紀後半から20世紀中ごろまでの米億海軍と日本海軍を中心に、軍事組織における問題解決のための方法論を歴史学や政治学のアプローチを中心とした学際的な視点で明らかにしていく、第Ⅱ部では、今日の軍事組織における問題解決のための方法論を、とくに1980年代以降米国を中心に発展してきたドクトリンと「作戦術(operational art)」を軸に、米英のケーススタディを用い、知的再生産の観点から明らかにしていく。本書の関心は方法論で定められた手続きではなく、いかにして方法論が学際的に想像され、採用され、継承され、確信されるかにある。
本書が対象とするのは軍事組織である。第Ⅰ部で、日米開戦を取り上げる理由は3つある。第1に、海軍の持つ普遍性である(20)。海軍は、陸軍のように地形や陣地などの外的環境に影響されず、むしろ装備の性能の優劣に左右されるという国家を超えた普遍性を有している(21)。さらに世界一般の海については、ある時期どこかの有力な海軍がその運航の安全を保障してくれている限り、他の諸国はあまりこれに気遣う必要がない。ここが領土防衛を主眼とする陸軍と世界のシーレーンを自由に行動する海軍の本質的な違いとされる(22)。
第2に、米国海軍の高等教育が、世界の軍事組織の地の制度化の原型とされる(23)
第3に、同時代に世界トップクラスに発展した日米海軍の方法論を比較することで、これまで方法論という面で分析されていなかった日本海軍研究にも新しい視座を提供できる、と考えられる。
なかでも重要な人物が、「海軍に考えることを教えた」といわれる米国の海軍軍人スティーブン・B・ルース(Stephen Becker Luce)である(24)。彼は1903年に、ロードアイランド州ニューポートの米国海軍大学校(U.S. Naval War College)で同年度の開講式にあたり式辞として次のように述べた
ルースは、海軍力を最大限に発揮するために海軍士官のプロフェッション(専門性)の中心を「知力」に置くべき、と説いたのである。海軍力発揮のために最も必要な準備こそ、海軍士官の集中的な学習とその知的努力であると、彼は固く信じていた(26)
ルースが高級士官養成のための海軍大学校を世界に先駆けて開設したのが1884年である。他国の海軍大学校の開設は日本が1888(明治21)年、英王に至っては1900年である。高級士官として必要なのは、軍事としての素養、技術のほかに、広い意味での戦略や国際関係論の知識であり、この点の教育で世界の海軍の先端をいったのが米欧海軍であった(27)
その背景には19世紀後半、列国海軍が帆船から蒸気船へ転換した技術革新の中で、ルースを中心とした米国海軍士官の一団が既存の組織文化の欠陥に危機感を持ったことがあった。本書が注目するのは、米国海軍大学校で教育研究され、実地に移された問題解決の方法論である。なお、士官教育の構造は表1にまとめているが、本書が対象とするのは高級士官教育である。
表1 士官教育の構造(出所:著者作成)
:米国海軍・日本海軍:自衛隊
士官候補生教育:海軍兵学校:防衛大学校、幹部候補生学校
初級・中級士官教育:各職種学校:述科学校
高級士官教育:海軍大学校:幹部学校
それでは、日本はどうだったのだろうか。日本海軍にもルースに比肩しうるような軍人が登場したのだろうか。米国海軍と同じような方法論が創造され、採用され、継承され、どのように革新されたのだろうか。この点につき、同時代の米国海軍から何か学ぶところがあったのだろうか。
本書では、まず19世紀後半に米国海軍でルースの作り上げた問題解決の方法論が、日本海軍創設以降、とくに1880年代から日露戦争会戦以前にかけて日本海軍にどのように摂取され、海上自衛隊にどのように継承されたのか、日本海軍の問題解決の方法論の適否を考察する。それは、言わば近代化を並行して行った日米の軍事組織における知的態度の比較でもある。
このため、本書の第I部では、日露戦争を近代的日本海軍がおおむね完成した時期と考える。それから大正時代、昭和時代、そして大東亜戦争敗戦に至る日本海戦の問題解決の方法論を、日米の知的態度の比較を通じ明らかにしていく。中心命題は、軍事組織の意思決定及び処置判断の源となる「状況判断(estimate of situation)」である。この「状況判断」を、学術と捉えて発展させた組織と、単なる業務として捉えた組織の対比が描かれる。その過程を経て、1954年に海上自衛隊が創設されてから形成された「作戦要務」と呼ばれる問題解決の方法論を分析する。
本章冒頭で「軍事組織における問題解決の方法論」が国の存亡に関わると指摘した。そのような立場から、本書の第Ⅱ部においては、今日の軍事組織における問題解決の方法論を分析する。そのため、世界の軍事スタンダードとして相応しいNATO諸国における戦略レベルと戦術レベルをつなぐ概念である「作戦術」の安全保障研究上の意義と位置づけを明らかにする。第I部の「主役」すなわち、近代における軍事組織の方法論に決定的な形を与えたのは米国海軍であった。第Ⅱ部では議論の主役は、「作戦術」発展の中核的役割を果たしている米国陸軍となる。
ヴェトナム戦争の蹉跌を経て、米軍が再生のリーダーと目したのがウィリアム・E・デピュイ(William E. DePuy)であった。デピュイは、ドクトリンこそが組織再生の中心であり、その後継者たちは「作戦術」を導入し、組織改革につなげていった。第Ⅱ部は、方法論を重視し、高等教育の制度化を通じ、ドクトリンを生み出す実相をケーススタディで明らかにする。米軍はヴェトナム戦争での敗北という深刻な失敗からいかに組織を立て直し、第一次湾岸戦争での勝利を獲得したのか。第I部同様、この過程を軍事的な高等教育の観点から描きだすことで、軍事組織における方法論が、近代の一時期における軍事組織を理解する上で有効な視点・概念であるだけでなく、より普遍的な重要性を持っていることを明らかにしたい。
どのような組織でも、多かれ少なかれ失敗を経験するものであり、米軍とて例外ではなかった。結論をやや先取りすれば、ヴェトナム戦争の敗北という失敗に際して、米軍は、かつて南北戦争後の海軍改革でそうしたように、方法論に注目することで課題を洗い出し、克服していくことになった。米軍がこうしたアプローチを採用したこと、しかも、その一応の結論は1991年の第一次湾岸戦争での勝利という形で得たことは、軍事組織にとって適切な方法論が普遍的な重要性をもっていることを示している。また、同時期に同盟国の英軍が米軍の知的改革の動きにどう対応したのかも、明らかにする。
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