『政党』岡沢憲芙著、現代政治学叢書13、東京大学出版会、1988
序章 政党の生息空間と政党政治の分析視点
福沢もとまどった
政党は日本の政治風土に根付くのであろうか。市民から見た政党風景は芳しくない。ウサン臭さとダーティ・イメージがどうしても付纏う。腐敗政治の代名詞であったり、派閥単位のボス政治をソフトに覆い隠す包装紙であったりする。そして、わかりにくい。
「ソレカラまた政治上の選挙法というようなことが皆無わからない。わからないから選挙法とは如何な法律で議院とは如何な役所かと尋ねると、彼方の人はただ笑っている。何を聞くのかわかり切ったことだというような訳け。ソレが此方ではわからなくてどうにも始末が付かない。また、党派には保守党と自由党と徒党のようなものがあって、双方負けず劣らず鎬を削って争うているという。何のことだ、太平無事の天下に政治上の喧嘩をしているという。サアわからない。コリャ大変なことだ。何をしているのか知らん。少しも考えの付こう筈がない。あの人とこの人とは敵だなんていうて、同じテーブルで酒を飲んで飯を食っている。少しもわからない・・・・・・」
博識の文明論者・福沢諭吉のとまどいは、今も新鮮である。ウサン臭さが付いた分だけとまどいも大きくなっている。
福沢が遣欧使節に参加して「何のことかサッパリわからん」を連発したのが、一八六二年。
板垣退助らが最初の政党・愛国公党を結成したのが一八七四年。
同じく板垣が自由党を結成したのが、一八八一年。
大隈重信の立憲改進党が一八八二年。
最初の政党からほぼ一二〇年。必ずしも古い現象ではない。「もう百年」なのに未成熟はけしからんと嘆くか、「まだ百年」だから発育不全もやむなしと納得するか。判断にとまどう。
政党は、多くの人工的創造物がそうであったように、間も無く文明史の舞台裏に消え去ってしまう一瞬の閃光に過ぎないのであろうか。遠い未来の文明論者は「一九世紀から二一世紀にかけて繁茂しながらも、遂に福沢のとまどいを克服できぬまま、歴史の幕間に露と消えた野望家たちの集団的努力」と定義して筆を置いてしまうのであろうか。少なくとも彼らにもう少し書き進めさせたいのなら、国際化・情報化・高齢化に有効に対応しながらトータルな《地球社会の成熟》を目指す行動に果敢に挑戦する勇気が必要であろう。だが、現実は・・・・・・。
反政党主義の乱舞の中で
政党は変身願望の強い妖怪にも似て捕えどころがなく、天衣無縫な天使にも似てしたたかである。これほどまでに不平・不満・失望が繰り返され、その無能を幾度となく糾弾されても、依然として政治シーンから消えることがない。
「民意に対応できぬ動脈硬化症患者」
「懲りもせず政治腐敗を撒き散らす破廉恥集団」
「国際世論の変容や新思潮に鈍感な変革不感症集団」
「セレモニーをシナリオ通りにこなすだけの権力病患者」
「《数の論理》で議会過程を支配し、議会政治の精神を封殺する新たなる寡頭制論者」
「出来そうもない公約を機関銃のように乱射する無責任な宣伝マン」・・・・
政党に対する批判を並べると際限なきリストができる。特に一九六○年代と七○年代の政党論はまるで批判論提出競争のようであった。政党政治は分裂的で無責任な運動と否定された。J・フィシェルの『反政党時代の政党と選挙』が意匠をこらして析出している。そして、今も、背を向けたり無関心を装う市民が多い。あからさまな憎悪と反感を表明する市民も、万策尽きて無視を決込む市民も少なくない。だが、「それでも」、政党はしぶとく生きている。
反政党論や政党無能論がいかほど乱舞しようとも、政党はマゾヒスティックな快楽でも感じているように冷静である。「現代デモクラシーは政党抜きでは機能できない」という現実を知り抜いているかのようである。つまり、「私たちが、政党政治の真直中にドップリ浸って生きており、好むと好まざるとに拘らず、避けて通れない隣人として政党と付き合っていかねばならない」ことを熟知しているようである。批判リストの長さは政党存在の不可避性を政党自身に確認させ、自己陶酔に誘う効果を演じているだけかもしれない。
一九八〇年に画期的な比較政党研究の資料が二点発表された。五三ヵ国一五八政党を詳細に分析したK・ジャンダの『政党:国際比較調査』およびA・デイとH・デーゲンハートの『世界の政党』である。この二大作は、「政党の見直し・改革」時代の到来を予告していた。八○年代は政党評価の両論並立時代となった。一方で、それでも政党に未来を繋ごうとする期待派と、他方で、依然として立直れないと分析する現実派が、工夫を凝らした業績を提出している。G・ポンパーらが「政党のよみがえり」について語る一方で、M・ワッテンベルグらは依然として「衰退」について語っている。また、R・コルブのように「不確かな未来」について語る研究者もいる。いずれにせよ、この両論並立時代は、後で紹介するように、K・バイメの『西欧民主主義における政党』など膨大な比較政党研究を生産した。比較の重心はヨーロッパとアメリカに置かれた。それだけ、政党が受けた打撃が深刻であったからであろう。R・カッツが編集した『政党政治:ヨーロッパとアメリカの経験』を始めとする『政党政治の未来』シリーズがこの時代の政党状況を雄弁に物語っている。
政党の生息空間
政党は、何よりもまず、《競合》《抗争》の中に存在根拠と活力源を見出し、《統合》《連帯》の中に明日への展望を求める政治集団である。闘争できぬ政党は今日の力を獲得できないし、連帯を拒絶する政党は明日を切り開けない。政治空間の中で《協同的競合》を展開する組織体と表現できよう。政治空間に浮遊するさまざまな利益・思想を吸収・動員して、その力を背景に政治過程の継続的支配権を奪取しようとする人びとの集合体とも表現できよう。
政党が市民(地域社会の市民、国民国家の市民、そして、近年では、地球市民)の継続的支持を求めて《競合》と《統合》を繰り広げる政治空間は三つある。
国内政治システムの中の政党。
政治システムとしての政党。
国際政治システムと政党。
政党政治空間1:国内政治システムの中の政党
第一空間は、国家という政治枠組である。従来の研究業績の圧倒的多数はこの分析レベルに焦点を合せてきた。政党行動の大半が、このレベルに集中しているからである。この空間では、政党の機能や目
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