『徳田虎雄 病院王外伝 国内最大病院を巡る闘いの舞台裏』大平誠著、2018


感想

5章のコンゴのミランガや、オスマン・サンコンの話、6章の体操競技への貢献が目新しいところ。



はじめに

名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ
故郷の岸を 離れて
汝はそも 波に幾月

明治の文豪、島崎藤村が親友の柳田國男から聞いた体験談をもとに書いたとされる詩にメロディーをつけ、1936年に発表された歌曲『椰子の実』の歌い出しを聞くと、誰もが郷愁にとらわれる。都会で心をすり減らして暮らす地方出身者ならなおのこと、椰子の実を間近に見て育った南国の離島出身者であればことさらその思いは強かろう。

その2年後の寅年に、この世に生を受けた徳田虎雄の人生を暗示するようなこの歌を、徳田自身もこよなく愛し、杯を重ねるとマイクを取ってよく歌ったという。

鹿児島と沖縄に挟まれ、琉球や薩摩藩に支配され、戦後はアメリカ統治も経験するなど政治に翻弄され続けてきた奄美群島・徳之島。その岸を離れた椰子の実は、流れ寄った大阪の地でひたすらな努力だけで医師になり、みずからにかけた生命保険を担保に病院を建て、誰もが平等な医療を受けられるという当たり前のことを信念とし、集めた同志たちを巻き込んで、息つく間もなく転がりながら、次々に病院を建てた。

思いやる 八重の汐々
いずれの日にか 国に帰らん

「椰子の実」の後段の歌詞にあるように、徳田は故郷の徳之島を含む離島へき地にもたくさん病院を建設しただけでなく、アジアや欧州、アフリカにまでその根を広げようとした。

国内では医師たちの既得権益を守ろうとする医師会にことごとく邪魔をされ、政治的圧力を跳ね返そうとみずからが政界に乗り込み、激しい選挙運動の末に衆議院議員に4回当選した。

虫垂炎の手術が得意だった外科医であり、徳洲会グループの経営者であり、奄美の心を解放し、生命だけは平等という理念を浸透させる社会運動家だった。吹き出るマグマのようなエネルギーの塊だった徳田虎雄は皮肉にも、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という肉体の動きを封じ込められる難病に侵されてしまった。

そして、政治家として代替わりした息子の選挙違反事件が起き、徳田はみずからがゼロからつくり上げた徳洲会グループを追われた。あれからすでに5年が経った。カリスマがつくり上げた日本最大の医療法人は、各地に根ざして花を咲かせ、実を結び続けている。

2018年5月には出身地の徳之島に顕彰記念館もできた。ALSの原因は未だ解明されず、治療法は見つかっていないが、満80歳を迎えた徳田の心には情熱が滾(たぎ)っているはずだ。徳田虎雄という稀代の傑物を表現するにはあまりにも力不足の感が強いが、今回取材に協力していただいた方々には、それぞれに徳田との触れ合いのなかで得た人生訓が凝縮していたように思う。徳田虎雄の記憶をたどる旅は、最善の医療現場の構築をめざすすべての人々の青春群像の記録なのだ。

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