『神になりたかった男 徳田虎雄:医療革命の軌跡を追う』山岡淳一郎著、平凡社、2017


感想

話は徳田虎雄が最初の病院を作った1970年代前半から、徳洲会事件を経て徳田一族が徳洲会の経営から去り、大体の事件のあらましが明らかになった2010年代半ばまでと、40年以上にも及ぶ。

ただ、話の本筋である徳洲会の拡大自体は、様々な産業が日本の高度経済成長期に起こした話とよく似ている。

しかし、徳田虎雄が政治にそこそこ関与していたこと、奄美大島などの独特の選挙、その背景にある暴力団込みの興味深い社会・風習、バブル期とその崩壊時の日本と外国の金融機関など、周りの話はえげつなくて面白い。

そして、徳田虎雄が死亡した2024年現在から振り返ってみても、「たった」ここ50年間の話でしかない。高度経済成長期が終わって、そろそろ「先進国」に仲間入りをしたはずの日本が、いかにヤバい国だったのかを思い出させてくれる。


まえがき

徳田虎雄がつくった徳洲会は、巨大で不思議な病院グループである。

最初に徳田病院を開院してから、わずか数十年で日本一、世界屈指の病院グループに成長した。政界を震撼させた「徳洲会事件」も、何とか乗り切った。グループ内には多くの法人が併存し、一時の勢いは薄れたものの、いまなお増殖中だ。

グループ全体の年商は四二〇一億円、職員数三万八〇〇人、病院数が七一、クリニックや介護、福祉系施設の数は一四五。一日の平均入院患者数が一万七三○○人、同じく外来患者数は二万四○○○人に上る(二〇一七年六月現在)

かくも巨大な民間病院グループを、徳田はなぜ一代で築き上げることができたのか。徳田のカリスマがけん引したにしても、ひとりで実現できるものではない。医療変革の旗印のもと、徳田と一緒に奔走し、働いた医師や看護師、事務職員らがいる。

これまで徳洲会イコール徳田、徳田イコール徳洲会という見方が強く、実践者たちの動きはヴェールに包まれていた。だが、二〇一三~一四年にかけて徳洲会事件が世情を騒がせ、「政治と金」の疑惑や、多数の公職選挙法違反者が出た。徳田一族と徳洲会の関係は断たれ、徳田と病院グループを切り離して眺められるようになった。

ともすれば徳田は、医療の「善」と政治の裏舞台での「悪」という両極端の顔を併せ持つ異端者と見られてきた。筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症し、全身不随で肉声を失ってからも、ギロリ、ギロリと眼で文字盤を追って意思を伝える。旺盛な生命力から「異形の病院王」ともいわれる。

しかし、善と悪、白か黒かの二分法で語れるほど人間は単純ではない。白から黒へのグラデーシヨンにこそ、一代で巨大病院グループを築いた徳田の本質が隠れている。

そのグラデーションは、彼とともに医療革命へ走った徳洲会の現職、OB、あるいは袂を分かった人たちにインタビューし、資料に当たらねば見えてこない。外向けの徳田像ではなく、側近や伴走者が体感した徳田像こそが、巨大病院グループが短期間に形成され、徳洲会事件で解体の危機に直面しながらも、規模を維持している謎を解く鍵になるだろう。

そう考えて、取材をスタートさせ、本書を著した。


・徳洲会発展の経緯

思えば、徳洲会は「たった一人の反乱」から始まった。高度経済成長のまっただなか、大都市圈でも休日、夜間の救急患者を受け入れる病院は極めて少なく、「医療砂漠」と呼ばれる医療空白地帯が広がっていた。そこに単身、徳田は乗り込み、現状に反旗を翻し、年中無休、二四時間、誰でも診ると宣言して病院づくりにとりかかった。

年中無休の医療現場は、野戦病院さながらであった。「アメリカ帰り」の医師が先頭に立って担ぎ込まれる重症患者の治療に当たる。アメリカ帰りは、日本育ちの医師の二倍、三倍働いた。徳田は「日本じゅうに病院を建てる」とぶちあげ、猪突猛進する。旧態依然とした医療を変革し、無医地区を無くそうとする使命感の裏に“打算”があったのも事実だ。

徳田は周到に調べて進出先を選び、チェーン店舗を増やすように病院をつくった。経営の基軸は徹底的なコストダウンである。コロンブスの卵のような発想だった。

その手足となって動いたのが、「七人衆」と呼ばれる側近だ。土地の買収から、医師や看護師の人材確保、医薬品や医療機器の購入など、一般社会からは見えにくい業務に彼らは邁進する。徳洲会は一種の社会運動体と化した。全共闘世代の医師が加わり、右も左も巻き込みながら規模を拡大する。その前に立ちふさがったのが、医師会であった。

地元の開業医が中心の医師会は、徳洲会の進出に猛反発した。患者を奪われると怯え、スクラムを組む。行く先々で徳田は医師会員から罵声を浴びせられる。「さっさと故郷の徳之島に帰れ」とまで言われた。頼みの綱は「民意」だ。医療を渇望する住民たちが徳田の背中を押した。

徳田は、転んでもただでは起きない。医師会と衝突を重ねるうちに「政治力」の必要性を痛感する。政治力を持てば行政に圧力をかけられ、病院建設への抵抗を抑えられる。つまり政治力があれば病院を増やせる。衆議院選に徳田は立った。自民党の世襲政治家と血みどろの闘いを展開し、落選。また落選。三度目の挑戦に向けて、背水の陣を敷く。

政治は、魔物である。選挙運動に大金を投じている間に徳洲会の台所は火の車になっていた。ついに経営を銀行に牛耳られる。徳田は医療法人徳洲会の「理事長辞任」の念書まで書かされた。

徳田は、銀行管理が迫る難局をはたして突破できるのか。側近たちは御大を当選させるためにどんな手を打ち、いかにして裏金を捻り出すのか・・・・・。

徳田の当選に向けて幹部が一丸となって突き進む姿には、善悪を超えた活力が横溢している。「生命だけは平等だ」という理念で結束した医療集団の底力といえばいいのだろうか。徳田は、三度目の正直で国会の赤じゅうたんを踏んだ。

政界に躍り出た徳田は、自民党入りを画策するも、叶わず、無所属議員を集めて「自由連合」を立ち上げる。いずれ集団で自民党入りを、ともくろんでいたが、思惑は外れ、政界漂流が始まった。資金力のある徳田にはさまざまな政治家がすり寄ってくる。

徳州会は、次から次に訪れる危機を、むしろエネルギーに変えて巨大化してゆく。その原動力は、目の前の患者を助けなくて何が医療だという根源的な自己規定であった。

だが、組織が膨張するにつれて、巨大な恐竜が環境への適応力を失うように徳田王国にも弱みが生じる。そのひとつが資金調達だ。グループ病院を増やし続けるには新たな資金調達先を見つけねばならず、徳田は「ワンワールド・バンカー」(国際金融勢力)と手を組む。

「強欲」の体現者たちは手ごわかった。徳洲会は、医療機関の自立性を奪われそうな、ぎりぎりのところで外資系銀行の「長い腕」を振り払う。

息つく間もなく、徳田がALSの告知を受け、王国に激震が走る。親族が経営に介入し、徳田の右腕の大番頭と火花を散らす。徳洲会事件が勃発した。事件後、徳洲会が解体を免れた背景には「大きすぎて潰せない」というありふれた言葉では語れない、深い事情が横たわっている。

湘南鎌倉病院一五階の完全看護の特別室で、ALSが進行した徳田は、しだいに覚醒している時間が短くなっているという。夢と現の狭間でも病院をつくろうと命の炎を燃やしているのだろう。そのあくなき執念からは人間を超えた「神」への憧れが立ち昇ってくる。

徳田虎雄とは、いったい何者なのか。

「理事長」あるいは「徳田先生」と呼ばれた男は、本人のみならず、彼と真剣にかかわったひとり一人の内面に存在していた。固有名詞を超えた、いわば「共同幻想」として徳洲会を支配したのだ。理事長という呼称に込められた統合力が徳洲会を世界屈指の病院グループへ押し上げた、と私は思う。白衣の聖性と経営の俗性を溶け合わせるには「人殺し以外は何でもやる」裏の差配も求められた。その現実から目をそむけては巨大病院グループを語れない。形の違いはあれ、徳洲会的なものはわれわれの社会に散在している。徳田と側近たちの軌跡は、高度成長期以降の日本の自画像である。

では、徳田王国の栄枯盛衰の物語の扉を開こう。

(本文中、可読性を考慮し、敬称を省略させていただきました)

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