『KGBの内幕―レーニンからゴルバチョフまでの対外工作の歴史』クリストファー・アンドルー、オレク・ゴルジエフスキー著、文藝春秋、1993
はじめに
たいていの作家は、いつかは自分の予言が当たるものと期待していい。だが、そういうことがしばしば起こるわけではな。クリストファー・アンドルーにその機会が訪れたのは、1985年10月、その著書『シークレット・サーヴィス――イギリス秘密情報機関の成立』が出版されたときだった。アンドルーはこの本の執筆中に、工作員の浸透や亡命という問題に脅かされているのは、クレムリンよりも西側の上層部のほうだという世界中に流布された仮設に疑問を抱いた。おの仮説は主として、世界のマスコミがケンブリッジ大学(アンドルー自身がここで歴史の教鞭をとっている)で教育を受けたソヴィエトへの浸透工作員(モグラ)に関心を持ったことから生まれたものである。だが、GRU内にあって、1962年のキューバ危機の際に決定的な役割を果たしたオレク・ペンコフスキーのようなスパイはほかにもまだいると考えた。彼は、自分の身内の者からも、およそあなたには似つかわしくないと言われた千里眼ぶりを発揮して、『シークレット・サーヴィス』の第一版に「新聞にまだ名前が出ないからといって、そのあとにはもうペンコフスキーはいないという結論を出すのは間違っている」と書いたのだ。『シークレット・サーヴィス』の出版直前に、もう1人の、そしてもっと成功を収めたペンコフスキー流のスパイが、こんどはKGBのの内部に潜んでいたというニュースが流れた。その男の名がオレグ・ゴルジエフスキーである。
1985年の夏にロシアから脱出する数カ月前、ゴルジエフスキーは、KGBのロンドン駐在官(支局長)に任命されたが、彼は1974年以来KGB内部にいながら、SIS、すなわちイギリス秘密情報局(別名MI6)のために働いていた浸透工作員だった。1986年の夏、ゴルジエフスキーは『シークレット・サーヴィス』を読んで、アンドルーに連絡してきた。2人の話し合いは翌年までつづいたが、アンドルーとゴルジエフスキーは、KGB工作に関する2人の解釈がよく似ていることに驚いた。アンドルーの主要な研究テーマは、十月革命から6週間後の秘密警察チェーカー創設以来、KGBが実際の敵や架空の陰謀に対して周期的に抱く強迫会年だった。そして、その強迫観念はゴルジエフスキーが直接経験したものでもあった。彼がKGB将校として送った経歴のなかで最もドラマティックな出来事が起こったのは、1980年代の初期、クレムリンが実際にはありもしない西側の核の先制攻撃計画を深刻に警戒していた時期のことである。ゴルジエフスキーは、KGBとGRUが空前の世界規模の共同戦線を張ったソヴィエト史上最大の情報工作に深くかかわった。暗号名をRYAN(核ミサイル攻撃を表すロシア語の略語)というこの工作は西側の核謀略を暴こうというもので、そのため、KGBはイギリスの血液銀行の在庫量や、採殺上で始末される動物の数や、サッチャー首相と女王の会見の頻度などを監視するという一風変わった手段を用いた。
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