『戦闘技術の歴史5 東洋編』創元社、2016年

日本語版監修者序文 杉山清彦

世界史上、アジアの戦争といえば、春秋戦国の争乱、アレクサンドロス大王の大遠征、三国志の英傑の活躍などが、すぐに思い浮かぶでしょう。『戦闘技術の歴史』西洋編四冊に続く東洋編の本書で扱うのは、アジアに含まれ広大な範囲のうち、地理的には日本列島・朝鮮半島・中国大陸・モンゴル高原をはじめとするユーラシア東方が中心です。また時間的には、一二世紀から一九世紀の約七〇〇年間が取り上げられます。

これは、日本では源平合戦から江戸時代、また中国では宋・元・明・清の四王朝に相当します。そのため、本書にはチンギス・ハーンや織田信長は登場しますが、項羽と劉邦の姿はなく、川中島の合戦はありますが、赤壁の戦いは描かれません。

これには理由があります。一つは、「東洋編」一冊に収めるには、アジアの歴史はあまりに巨大過ぎるということです。しかし、より重要なことは、多くの地域において、戦史や軍事技術に関する正確な情報と、それに基づく学術的研究が不足していることです。たとえば、三国志の物語で有名な赤壁の戦いは、実際にはよるべき記録はほとんど残されておらず、戦場の場所さえわかっていないのです。本書で扱う範囲は、その中で比較的信頼すべき史料が残され、研究の蓄積がある時期ということができます。そしてこの範囲の中には、モンゴル帝国がユーラシアを制覇した一三~一四世紀と、火器の普及によって戦術の革新が起こった一六~一七世紀という、二つの重要な時期が含まれています。これらの時期にはまた、モンゴルの日本遠征(元寇)や、日本の朝鮮出兵(文禄・慶長の役、壬辰丁酉倭乱)などにおいて、それまでの時代には見られなかった大規模な水上戦闘も繰り広げられます。本書で取り上げる範囲は、一見、見どころに乏しいように感じられるかもしれませんが、このように、実はそれぞれの地域の歴史上、ひいては世界史上重要な時期とトピックを対象としているのです。

本書で主に取り上げるユーラシア東方の国家には、大きく二つの流れがあります。一つは、国民皆兵・軍政一致の権力が定住民社会を支配する中央ユーラシアの遊牧国家の系譜、いま一つは、官僚機構と文書行政制度に支えられた中国王朝の系譜です。前者は紀元前一千年紀のスキタイや匈奴に始まり、一三世紀のモンゴル帝国のユーラシア大陸の大半を覆うに至りました。他方、秦漢時代(前三世紀末~後三世紀初)に姿を現し、隋唐期(六世紀末~一〇世紀初)に形を整えた後者は、九六〇~一二七六年)を経て明代(一三六八~一六四四年)皇帝独体制が確立されるとともに、そのような国家体制モデルは、朝鮮・ベトナムなど近隣諸地域にも受容されていきました。

まず、後者、すなわち中国の軍事制度から見てみましょう。中国では、古代においてこそ、春秋戦国時代として知られるように多くの君主国が割拠・抗争しましたが、始皇帝(前二二年)以降は、統一王朝の形式が確立しました。このため軍隊も、領主が私的な軍事力を保有・行使する日本や中世ヨーロッパのような形態を取らず、形式面では国軍と位置づけられました。

兵馬俑は紀元前三世紀の中国における歩兵隊の構成や軍装を生き生きと伝えてくれる。もっとも、古代の略奪によって、これらの兵士が携えていた本物の武器の多くは失われた。

他地域とりわけヨーロッパと比べたときの中国の軍事制度の特徴は、まず、豊かな農業生産に支えられた巨大な兵員規模です。人口中国では、古く戦国時代すでに数十万人規模の動員が行われ、宋代には一〇〇万人を超える常備軍が存在していました。そのすべてが実戦兵力であったわけではありませんが、それにしてもずばぬけた規模といわなければなりません。兵員の徴募は、兵籍簿に基づいて召集する微兵制と、俸給を支払って召募する募兵制とが併用され、時代とともに後者が主流となっていきました。このような巨大な常備軍を維持するには、莫大な経費が必要です。そのため、とりわけ唐代後半以降の王朝の体制は、高度に発達した徴税機構によって租税・労役を徴収し、政府が全国的に物流を組織する財政国家へと変貌しました。集めた税収は、その大半が兵員の俸給や軍事拠点への補給に充てられました。例えば北米では、国家の歳入の実に七割が軍事費に投じられていたとされています

第二の特徴は、軍隊の統制に非常に注意が払われたことです。早くから皇帝への権力集中と、その手足としての官僚制度の整備が進んだ中国では、軍事面においても、皇帝権力による統制が行きわたるよう、一貫して苦心が払われました。単一の総軍司令部はおかれず、各部局や司令官は、単独で部隊が動かせないように意図的に重複するようにされたり、指揮が集中しないように複数の組織系統に分割されました。実務官庁の六部(りくぶ)においては、陸軍省に相当する兵部(日本史「へいぶ」と読む)は軍政面のみを担い、用兵や作戦を担当するわけではありませんでした。国境防衛・地方駐留においても、司令官の権限は軍事面に限定されていて任地の民政から切り離されており、また部下の任免・処罰権を持たないなど、幾重にも統制が加えられていました。有事の際にはそのつど司令官が任命されて、各部隊から抽出したり臨時徴収した兵で出征軍を組成し、任務終了後に解散する方式となっていました。

このような方策は、巨大な国軍を維持しつつ、司令官による軍の私物化や地方軍隊の反乱を防止するためのものであり、一定の効果はあったといえます。それでも、安史の乱(七五五~七六三年)のように、唐代には地方軍司令官である節度使の反乱にたびたび苦しめられましたし、内乱の抑止には成功しても、本来の目的である外敵防衛・反乱鎮圧のための実戦能力の維持は困難でした。このようなジレンマに悩まされながらも、厳しい軍隊統制が優先されたのは、こそが、王朝にとって重大な関心事であったからにほかなりません。

中国で軍事というと、「良鉄、釘にならず」――まともな人間は兵隊にはならない、という言葉がすぐに思い浮かぶかもしれません。そのような思想に裏づけられた崇文主義が一貫して存在したことは事実ですが、しかし、それを社会的現実として額面通りに受け取ることはできません。一つは、社会全体の問題です。膨大な人口を抱える中国社会では、現実の問題として、兵士や治安要員になることは生活手段の一つでした。いま一つは、支配層内部の問題です。中国において、理念や礼遇の面で上位に位置づけられたのは文字・文人ですが、実権を握っていたかどうかは別問題であり、また、彼らが文事にのみ専念していたわけでもありません。文官なら軍事に関わらないのではなく、むしろ軍隊の最高指揮は、試験である科挙によって登用された官僚が任命されることが一般的でした。まさしく、軍事は重大事過ぎて軍人には任せられない、と考えられていたのです。ひるがえって、政府を組織・運営していたのは文官だけでなく、文官・武官・宦官の三者でした。そして実際に政治・軍事を動かしたのは、むしろ武官と宦官の方でした。現在でも、中国共産党といえども人民解放軍の意向を無視することはできないように、中国史を見る際に、軍事力や軍人の役割を適切に評価することは重要なのです。

他方、中央ユーラシアにおける軍隊と国家・社会の状況は、当然これとは大きく異なります。中央ユーラシアとは、東は大興安嶺東麓のマンチュリア平原から、西は黒海北岸のロシア平原を経てハンガリー盆地に至る広大地域です。果てしなく広がる森林・草原や砂漠に点在するオアシスにさまざまな生活様式の人々が散らばる中央ユーラシアでは、迅速かつ長距離の移動能力に長け、不時のトラブルを実力で解決しうる騎馬軍事力を持つ遊牧民が、広域の政治秩序の主宰者となってきました。

遊技的騎馬軍事力の特長は、成人男子の牧民たちがただちに騎馬戦士集団になるという、組織性・即応性の高さにあります。騎馬の機動力と騎射(騎乗での弓射)戦術は、前近代の軍事・交通技術水準にあっては、遮蔽物・障害物の少ない環境での戦闘と、状況に応じた自在な進撃・撤退とに最も適していました。このため、スキタイ・匈奴以来の彼らの軍事的優位は、戦場で対抗することも技術を模倣することも容易であった近世段階の初歩的な火器では揺るがず、一八世紀まで、騎馬軍事力に依拠する中央ユーラシア国家が継起しつづけたのです。

中央ユーラシア国家においては、個々の牧民が即騎馬戦士になるように、国家組織と軍事組織は表裏一体のものでした。その組織は、

  1. 十人隊ー百人隊ー千人隊ー万人隊といった、匈奴来の十進法的な階層組織体系、

  2. モンゴルにおけるチンギス・ハーン一族国家(モンゴル語でウルスという)のような、君主一門の分封とそれぞれの下への麾下の分属

  3. 君主を中央とし一族・傘下諸部族を両翼に配置する左右翼体制

  4. モンゴルのケシクなど、側近集団の役割を果たす君主の親衛隊、

といった形態を取りました。とりわけモンゴル時代以降は君主一門の権力が飛躍的に高まり、ハーンの地位にはチンギスの後(ポルジギン氏)しかつけないという、源氏将軍のような伝統ができあがりました。

中央ユーラシアは、中国とは正反対に、武が文に優越する尚武の世界であり、そのような社会体制を規定したのも、漢人社会と正反対の人口の稀少さでした。自由民の騎馬戦士によって組織された彼らの軍隊・政治組織は、そのため必然的に少数精鋭となり、それが右のような形を取って現れたのです。このような組織のもと、さまざまな集団・個人が出自・宗教・言語にかかわらず能力主義で登用される一方で、譜代の遊牧部族の家系か早くから服属した勢力も尊重されており、遊牧国家は、世襲と実力のバランスのとれた、開放的で多元的なしくみによって運営されました。

従来、遊牧民は中国史でも西洋史でもしばしば「蛮族」として扱われてきましたが(本書にもそのような部分がないわけではありませんが)、本書では基本的に、中央ユーラシアの諸勢力を、このように独自の制度・習慣を持つ主体として描いています。とりわけ、中央ユーラシアの勢力が万里の長城以南の中国内地を支配したモンゴルの元や女真(満洲)の金・清については、有望・狩猟民の支配層と、その統治下にある漢人社会との区別に注意が払われており、複合的な諸相を捉えることに成功しています。

なお、ここでもう一つ忘れてはならないのは、九世紀以降の西アジア・北アフリカにおいて軍隊の主力をなした。マムルークやグラームと呼ばれる奴隷軍人です。彼らは中央アジアから流入してきたトルコ系武人で、君主に購入されて直属軍団を構成しました。自由民戦士の伝統を持つトルコ系騎兵が、なぜ個人としても集団としても奴隷軍人制度を受容していったかは、現在も重要な研究課題として残されたままとなっていますが、少なくともこれがユーラシア東方在来のものでなく、また東方にはその後も広まらなかったことは、注意しておく必要があります。本書では扱われませんが、アジアの軍事史を考える際、第三の類型として、西方のイスラーム王朝と奴隷軍人制度にも目を向けなければなりません

ひるがえって、このように見てくると、私たちに見慣れた日本の武家社会の世界史的特質も浮かび上がってくるように思われます。日本では、古代においては中国王朝の制度に倣った徴兵制の国軍の志向されたにもかかわらず、その後は反対に、領主制のもとで私的な軍事力が強化される道をたどることとなりました。それが極度に発達しながらも強力に統制され、公の軍事力と位置づけられるに至ったのが、「武家の国家」と呼ばれ近世幕藩制国家の体制なのです。これは、封建軍から傭兵軍、国軍への過程をたどっていった中国やヨーロッパと正反対の道であり、しかもそれが、形式上の国軍よりも強力な求心力のもとに編制・運用されたという、独自の形態を示したものということができます。

また、この時代についてふれるならば、火器についても一言しておかなければなりません。火器の普及が歴史上大きな役割を果したことはアジアでも同じですが、その重心と度合いは、一様ではありませんでした。野戦での使用が先行した日本では、大砲よりもまず鉄砲が急速に広まりました。一方、都市などの拠点が堅牢な城を持っていた中国では、射程が大きく、構造物の破壊に適した大砲が普及しました。しかし、ヨーロッパにおいては火器の発達が「軍事革命」をもたらしたのに対し、もともと都市が攻城砲を寄せつけないほどの囲郭を持つ中国・朝鮮では、政治制度や社会に変革をうながすような影響は与えませんでした。他方、一望千里の草原や砂漠が広がる中央ユーラシアでは、依然として騎兵の戦闘力が当時の技術水準の鉄砲や大砲を凌駕しており、これまた騎射戦術や遊牧国家のあり方を変えるには至りませんでした。このように、近世段階では、火器の受容のあり方と歴史的役割は、ヨーロッパとアジア、また日本・中国・中央ユーラシアで、それぞれ異なっていました。火器が決定的な意味を持つようになるのは、一九世紀になってからのことなのです。

本書は、アメリカの軍事史家五名による共著ですが、モンゴルや中国・日本の戦史・軍事技術史の豊かな知識最先端の研究状況をできる限り踏まえて書かれています。これだけ広汎な時代・地域を扱っているので、個々の点には粗さのあるところもありますが、これほど幅広い対象書できるは大きいといえるでしょう。なお、日本史についてもよく把握していますが、川中島の戦いでは、通俗説が入りこんでいるところもあるので、より関心のある方は、それらに関する日本史のを参照ください。本書においては、著旨を損なわない範囲で、史実や研究状況に合せた補訂を全体にわたって施しています。

軍事史研究の立ち後れはいずれの地域についても指摘されるところですが、本シリーズ各巻で描かれてきたように、軍隊と軍事技術が歴史上果たした役割の大きさは、軍事史が西洋史の理解に不可欠であることを明らかに示しています。このことは、日本を含むアジアの歴史においてもそのまま当てはまります。そして、冒頭で述べたように、史料に基づく実証的・理性的な軍事研究は、まだまだ未開拓のままに残されているのであり、またそれゆに、現在、ダイナミックに研究が動いているところなのです。本書を通してその一端に触れていただければ、さらにはその探究の道に関心を持っていただけるならば、まことに幸いです。

非凡な策を使う軍隊の機略は、天地のごとく無限であり、大河のごとく無尽である。

『孫子』

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