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家庭学校とステッセルのピアノ その2
北海道家庭学校礼拝堂には、五木寛之氏の「ステッセルのピアノ」でさらに広く知られるようになったピアノが置かれていました。
*家庭学校礼拝堂ステンドガラス風は、遠軽町福路3丁目いわみ橋の装飾
クロパトキンのピアノ
谷昌恒北海道家庭学校第5代校長は、五木寛之氏に「クロパトキンのピアノ」説もあることを紹介しました。
五木寛之氏の家庭学校訪問
テレビ金沢制作の「ステッセルのピアノ 運命のピアノが奏でるレクイエム 」取材のために1993年(平成5)3月、家庭学校を訪れた五木寛之氏を谷 昌恒校長が案内しました。その時に谷校長は、明確に「ピアノの由来はわからない」と答えた上で、
・寺内正毅陸軍大臣からの払い下げ品
・ステッセルのピアノといわれていたことがある
・クロパトキンのピアノといわれていたことがある
ことを伝えています。
「このピアノの由来については、私どものほうでも全くわからないのです」
と、横から谷先生が話しかけられてこられた。
「むかしは漠然と〈ステッセルのピアノ〉といわれていたこともあるんですよ。まあ、ここに書かれておりますように、寺内陸軍大臣からの払いさげ品であることは確かだと思うんですが、それ以前の経緯となりますと、まるで五里夢中といった感じですね」
「さっき送ってくれたタクシーの運転手も、たしかステッセルの名前を口にしていたようでした」
「ええ、一時はそういう説がかなり広く流れていましたから。でも、なかにはクロポトキンのピアノ、というふうに紹介してある雑誌もあるのです。」
・寺内正毅(1852 - 1919) : 明治・大正期の陸軍軍人、政治家。元帥陸軍大将、韓国統監(第3代)、朝鮮総督(初代)、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣(第19代)。「ビリケン宰相」の異名を持つ。
露西亜軍人名は広く知られる
日露戦争旅順攻囲戦での乃木希典大将を歌い込んだ、しりとり手毬唄が1950年代頃までよく歌われていたとのことで、その歌詞に「クロパトキン」「マカロフ」とロシア軍人の名前があります。なお、この「乃木さんの」手毬唄は、全国各地で様々な歌詞で歌われていたようですが、その一例を示します。
陸軍の / 乃木さんが / 凱旋す / 雀 / メジロ / ロシヤ / 野蛮国 / クロパトキン / 金の玉 / マカロフ / 褌 / 締めた / 高シャッポ / ポンヤリ / 陸軍の・・・乃木さんが・・・と繰り返す。
佐佐木信綱(1872-1963) 作詞、岡野貞一(1878-1941)作曲の「水師営の会見」には「ステッセル」が歌われています。
旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の 所はいづこ水師営
庭に一本棗の木 弾丸跡も著るく 崩れ残れる民屋に 今ぞ相見る二将軍
【以下略】
石川啄木は、「マカロフ提督追悼の詩」を作りました。
マカロフ提督追悼の詩
嵐よ黙せ、暗打つその翼、
夜の叫びも荒磯の黒潮も、
潮にみなぎる鬼哭の啾々も
暫し唸りを鎮めよ。万軍の
敵も味方も汝が矛地に伏せて、
今、大水の響に我が呼ばふ
マカロフが名に暫しは鎮まれよ。
彼を沈めて、千古の浪狂ふ、
弦月遠きかなたの旅順口。
【以下略】
露西亜軍人の名前は、様々な形で広く日本国民に知られていました。
クロパトキン
アレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキン(1848-1925)は、帝政ロシアの軍人。ロシア帝国陸軍大臣、日露戦争時のロシア満洲軍総司令官で、1898年1月に陸軍大臣となり、1903年に日本を訪問しました。日露戦争時にはロシア満洲軍総司令官を務めました。
*ステッセルの上官にあたります。
マカロフ
ステパン・オーシポヴィチ・マカロフ(1849 - 1904)は、帝政ロシアの海軍軍人、海軍中将、海洋学者。日露戦争時のロシア太平洋艦隊司令長官で、4月13日に旅順港で座乗していた旗艦ペトロパブロフスクが日本軍の敷設した機雷に触雷爆沈した時に、乗組員500人と共に戦死しました。
谷昌恒校長が語るピアノ修復
谷昌恒(1922年 - 1999年頃か)は、日本の教育者。北海道家庭学校の第5代校長(1969 - 1997)を30年近く務めました。著作物も多く、北海道家庭学校への理解と協力を広めました。その 谷校長が1994年(平成6)9月24日発行の「ひとむれ 80周年記念誌」にピアノ修復について記しました。
古くて新しいものを
校長 谷 昌恒
北海道家庭学校創立八十周年の記念の年に、ステッセルのピアノの修復はまことに象徴的な出来ごとになりました。ピアノは家庭学校の博物館に納められ、久しく、ほこりをかぶったままになっていました。日露戦争の鹵獲品であり、陸軍大臣寺内正毅大将から払下げられたものであることを記した説明書が添えてありました。往時の家庭学校の機関誌「人道」には、堅牢美麗なるピアノを礼拝堂に備えることができたことを喜ぶとありました。
難攻不落と謳われた旅順の要塞をめぐる、壮烈な攻防戦のあと、戦利品として乃木軍の手に帰したピアノは、ロシアの将官の夫人が愛用したものでした。はるかの最前線まで、こうしたピアノを携えた家族を迎えて、将軍たちの生活は何とも優雅なものでした。そのロシアを相手に、祖国の存亡を賭けて、日本は文字通り決死の戦いを挑んでいました。累累と、死屍の山まできずいた戦斗でした。
東京巣鴨にあった家庭学校に下賜されたピアノは、後に昭和七年、社名淵の分校に移譲されました。当時、留岡清男先生が社名淵の分校の教頭をしておられました。ロシアの将軍の中で、ひときわ名の知られていたのはステッセルでした。ピアノはいつしかステッセル夫人が愛用したものと伝えられるようになりました。以後、二十年余、多くの職員、少年、また来訪者に愛されてきました。御校のピアノを弾かせていただいたことがありますと、いつまでも懐しそうに仰有る方も少なくありません。昭和二十九年、時計台の歌で知られる札幌の声楽家村井満寿先生が、新しいピアノを寄贈されて、古いピアノは引退して、博物館に納められることになりました。
ステッセルのピアノは金沢市にもありました。地元の新聞社の企画によって、そのピアノが復元されることになりました。修復は大へん大がかりなもので、外装は輪島塗、黒地に大きく鶴が舞う、あでやかな模様までほどこされたようでした。また、作家の五木寛之氏に委嘱して、ピアノの来歴をより明らかにすることが試みられました。
五木さんは金沢、水戸、旭川、遠軽、を次々とおとずれて、何れの地でもステッセルのピアノと愛称されているピアノの由来をたずねて旅を続けました。五木さんの関心はピアノにあり、家庭学校とは農協の花嫁学校だろうというほどの理解で、遠軽に来られたようでした。雪におおわれた白い森の学校に足を踏み入れて、五木さんはひどく喜んでくれました。少年たちが少しの屈託もなく、いきいきと輝くばかりの眼をしているとほめました。私の少年時代も苦しく、荒れたものでした。つぶやくような声でしたが、氏の話に深い印象を受けました。私は初対面の五木さんに、強く惹かれるものを感じました。五木さんは、「ステッセルのピアノ」という本を出版されました。古くロシアから伝えられた数台のピアノが、各地で大切に保存されていたことに、両国民の友愛の証しを見た思いがすると言うことでした。
家庭学校にある、由緒あるピアノを修理して上げたい。遠軽町の有志の方々が熱心な声をあげました。八十周年記念事業協賛会が結成され、募金活動が始められました。古いものは、古いままで、そっとしておくがいい。そういう声もありました。みな、家庭学校に厚意をよせて下さる方なのです。しかし、より多くの方は、古いピアノが再び高らかにその音を響かせるようにと願っておられました。
隣の丸瀬布町には北見木材という会社があり、ヤマハの木材部品のほとんどを生産しています。丸瀬布町は森林密度が全国一と言われている町です。専務の広瀬英雄氏はヤマハ本社から出向している方です。ピアノの修理はヤマハの浜松工場で引受けるという話がまとまりました。話はまことに順調にすすみました。まだ残雪深い三月、コンテナに積み込まれて、ピアノは学校をあとにしました。
五月十八日、私は浜松の工場をたずねました。四人の技術者が専属にこの仕事にかかり切りになっていました。分解された部品の一つ一つが、丹念に整理され、大きな机一ぱいに、順序正しく、厳格に並べられ、細心に、慎重に作業がすすめられていました。私は驚嘆しました。これでは、新製品を作るより、余程面倒だと思いました。
七月二十日、修理が完了、工場で試弾式を行うからと案内を受けて、再度、浜松をたずねました。わざわざ大阪から駆けつけた米川幸余さんの見事な演奏がありました。ショパンの「ノクターン遺作」。豊かな、まろやかな、やさしい音色でした。「弾いていて、魂が一ぱい詰まっているように感じました」米川さんは感激に頬をそめていました。
復元にあたっては、弦、鍵盤、ハンマー、フェルト類、チューニングピン等の消耗品、あるいは錆の発生パーツのみ交換し、出来るだけ、オリジナルの保存、修理に努めました。技術の方々はそう言っていました。担当の野末林義さんは、大変勉強になった仕事でしたと、技術者としての喜びを述べておられました。事前にわざわざ遠軽まで足を運び、仕事のあらましを入念に打合せして行かれた方でした。
木質部は二百年までは、ますますよくなるものです。弦を更えましたから、このピアノは今後百年、いよいよ美しい音色をかなでることと思います。技術部長の野崎欣也氏の言葉を、私は心から嬉しく思いました。すでに百年以上の齢を重ねているピアノです。ドイツのライプチッヒの近く、ツアイツの工場で製造されたピアノです。今、見事に甦って、更に百年、一層の活用が期待されると言うのです。私は強く励まされるものを感じました。
北海道家庭学校の教育の原則は、その校名の通り、家庭的な処遇ということであります。夫婦制の小寮舎は本校の教育の根幹というべきものです。昼夜をおかず少年たちに尽す夫婦の職員の姿が、大きく少年を変えるのです。日常生活のすみずみにまで、心が行き届くのです。
北海道家庭学校は自然を何よりも大切にして来ました。自然と人間が調和して、自然はいよいよ美しく、人間はやさしく謙虚なのです。自然と人間が敵対すれば、自然はたちまち荒廃し、人間は頻廃するのです。
本校はまた三能主義を唱えて来ました。よく働き、よく食べ、よく眠る。それは不健康では不可能なことです。健康な生活をしよう、留岡先生は最も平明な形で、日常の生活の基本を定められました。
流汗悟道、人間は汗を流して、はじめて何かが分ってくるのです。多くの人の世話になっていること、助けを受けていること。何もしなければ、何も分らないのです。怠惰は忘恩なのです。私たちは多年に亘って、さまざまな生産活動に努力して来ました。年若い少年諸君と共に、熱心に勤労の生活を続けて来ました。少年の心を養いたいと願ってきました。
ペスタロッチーは遺著とも言える「白鳥の歌」の中で、生活が陶治するという信条を述べました。留岡先生は強い共感を覚えられました。私たちは、この森の中にどっしりと生活の根を下ろし、少年たちを預かり、すべての生活を共有して、その教育をすすめたいと願ってきました。
北海道家庭学校は創立八十周年を迎えました。その思想、その主張は概ねこのようなものです。少しく古くさいでしょうか。たしかに現代風ではありません。しかし、ステッセルのピアノに似て、絶えず新しい活力を吸収しながら、なお五十年、八十年の歳月に耐えたいと思うのです。
ピアノ修復の記録
北海道家庭学校創立80周年記念事業として寄付金を募って行われたピアノ修復の記録が1995 年刊行の冊子となって残されていて、遠軽町図書館の郷土資料コーナーに並んでいます。
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ピアノ修復の記録の冊子より北海道新聞記事
・1993年4月1日付 : 展示のパネルには「ロシア軍将軍夫人の使用せしもの。当時の陸軍大臣寺内正毅大将の払下品」とあり、同将軍は極東軍総司令官クロパトキンとの伝聞もある。
・1993年7月26日付 : 職員たちの伝聞ではクロパトキン将軍の夫人が使っていた物といわれる。
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・1993年12月19日付 : 谷昌恒校長は「命あるものはすべて滅びる。音色を異質なものにしてまで修理すべきか。だが、こちらはうける立場。寺内大将から贈られたものですよ、と展示しておくのが素直な残し方とも思う」と微妙な言い回しをする。
・1994年3月3日付 : 譜面を照らすためのしょく台と足元の彫刻が長い歴史を感じさせ、「(帝政ロシア時代の将軍)クロパトキンのピアノ」と伝え聞く人もいるが、素性ははっきりしない。- 中略 - 修復は、ハンマーや断線している弦を取り換え、使える弦のさび落としをするほか、外装の破損部分を復元する。
・1994年7月21日付 : ピアノは一八〇〇年代後半の製造。地元ではクロパトキンのピアノといわれていたこともある。(修復完成を伝える記事)
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・1994年7月28日付 : このピアノは、帝政ロシアのクロパトキン将軍夫人が使っていたともいわれ、一九三二年ごろから同校が所有。(礼拝堂に戻ってきたことを伝える記事)
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・1994年8月20日付 : ピアノ修理費250万円のうちヤマハ負担分を除く150万円を目標に募金を呼び掛けていた八十周年記念事業協賛会が232万円を集め、差額はピアノの維持・管理費・小冊子作成にあてることとした。
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・1994年9月4日付 : このピアノは、帝政ロシアのクロパトキン将軍夫人が使っていたとされ、一九三二年(昭和七)ごろから同校が所有。(修復完成記念コンサート)
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・1994年9月26日付 : このほど復元された、帝政ロシアのクロパトキン将軍夫人が使っていたといわれる同校所有のピアノがお披露目され、・・・(開校80周年記念式)
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五木寛之氏の著書「ステッセルのピアノ」により広く「ステッセル」が認識され、家庭学校のピアノが「クロパトキン」から「ステッセル」との呼び名が通称となっていったように思われます。
ステレオタイプ
出どころ不明な情報によると、ステッセル将軍は恐妻家で気の強い性格のヴェラ夫人には生涯頭が上がらなかったと云われていて、将兵が美男子と見ればあからさまに誘惑する夫人の行動に何も言えず、幕僚達に「妻の行動に不義があればどうか止めて欲しい」と常に頼んでいたという話が残っているとのことです。
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Вера Алексеевна Стессель
さて、ヴェラ・アレクセーエヴナ・ステッセルの所持品であったと言われるピアノが複数存在したり、クロパトキン夫人のピアノがあったりすることは、様々な思い込みの、あるいは都合の良さげな話の結果であるように筆者には思われます。
ジェンダー・ステレオタイプ
社会に浸透している性別に関する固定観念や思い込みのことを「ジェンダー・ステレオタイプ」というのだそうですが、「○○夫人のピアノ」はまさにそれだと筆者は確信します。
ピアノ = 女性
「○○将軍のピアノ」と呼ばれるのは日露戦争の戦利品を端的に表現する手法として、日本国民に広く知られたロシアの将軍の名前を付けることにより、なお親しみやすい品とする効果があるのだと思われます。
戦利品 = ロシア将軍の所持品
水戸市立大場小学校のピアノが「ステッセルの」と信じられていたのも、ステッセルがとても有名で知られているロシア将軍であり、夫人と旅順にいたことが知られていたこそであったと思われます。その頃のロシア軍艦には女性が乗船していないので、その船の備品にピアノがあるということがジェンダー・ステレオタイプと馴染まなかったのでしょう。
どれもみんなステレオタイプかも
「戸山学校のピアノ」「金沢学院大学のピアノ」「水戸市立大場小学校のピアノ」「旭川北鎮記念館のピアノ」「北海道家庭学校のピアノ」「京都立誠小学校のピアノ(未確定)」、どのピアノも日露戦争の鹵獲品ですから日本国内で名の知られた「ステッセル」あるいは「クロパトキン」そして「○○夫人の」と呼ぶことはステレオタイプの可能性があるのではないでしょうか。戦いに敗れた者がわざわざピアノを贈るというのは、ありそうではないと思えてなりません。
とは言え日露戦争の戦闘に参加した日本人総数は、戦地と後方勤務の双方をあわせて108万人を超えていて、このうち戦死者約8万4千人、戦傷者14万3千人であったことを忘れてはいけません。
writer Hiraide Hisashi
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