三陸復興考
20数年振りに三陸を訪れた。もちろん、震災後初。あの震災からの復興を自分の眼で見たかった。今回の旅の前半は、「大船渡線BRTライン」。BRTは、旧鉄道路線をバス専用道にして、バス運行する(一部、一般道も走る)。そしてこの線は、あの陸前高田を通る。
以前、仕事で陸前高田を訪れたことがある。もうすっかり忘れているけれど、恐らく港に近い場所の寿司屋か居酒屋で夕飯を取ったと思う。今回いったんは、陸前高田に泊まろうと思った。が、完全に失われた町の後に、超人工的な町が造られている。しかし「人気(ひとけ)」は全く、無い。
あと何十年か経っても、この「人工観」は、払拭出来ないだろう。日本が戦後、10年もしたらそれなりの町並みが復興したのと比べると、余りにもその違いが激しい。そこで宿は、大船渡にした。ここも災害を受けたが、陸前高田よりは少し「マシ」かと思う。
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私は、昭和30年生まれ。敗戦から、10年経った年だ。既に大方の日常生活は営まれていたが、家の周りには空き地が多く、土管などがそのまま放置されており、そこが我々の遊び場だった。
その頃にはもう、闇市は無くなっていたがしかし、駅前などでは闇市から発展し所有権がはっきりしない飲み屋街などが数多くあった。子どもたちにとっては、学校への行き帰りに近くを通ったが、安易に踏み込めない雰囲気があった。
当時、「家飲み」は普通では無かった。男はだいたい家の外で酒を飲んで帰って来た。家で酒を飲むのは、特別な日だった。
そんな闇市上がりの飲み屋は狭く、カウンターで隣り合わせた客とも、自然と人間関係を築いたろう。互いの会社の愚痴なども、言っていたろう。
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「飲む、打つ、買う」
昔から男の甲斐性であり、身を滅ぼす原因でもある。かつて、街にはかならず「買う」場所があった。買うとは通常、遊郭のことだがしかし、遊郭の成り立ちは、都市化で地方から膨大な男性労働者が流入し、その慰めとして造られたもので(=江戸時代の吉原が典型)、地方の農村漁村で遊郭は無かった。となると、受け皿はあったのだろうか?
ひとつは「峠の茶屋」。表街道には、関所がある。が、様々な事情で表街道を往けない者たちは、裏街道を往った。そこで、表街道の関所に相当するのが、峠の茶屋だった。
その使命は、外部から怪しい者が流入すると、町や村に速攻で警告を入れる。一方、村の寡婦を外部の男に接待させたり、村では禁じられていた賭博を行うこともあった。つまり、都市化されていない町や村にも、この様な「悪場所」はあったのだ。
震災前の気仙沼、陸前高田、大船渡への私の記憶はほとんど無いが、皆、歴史があって著名な漁港だったので、それなりの「悪場所」はあったと思う。が、あの震災で全て消滅した。
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現代の地方都市に於いての悪場所は、
「飲む=カラオケボックス、打つ=パチンコ、買う=ラブホテル」
だろう。が、これらは全て、見ず知らずの他人と肩を触れ合い、酒を飲んで語らい、小さな喧嘩などもし、別の町のことや組織の事情を知り、改めて日常を鑑みる施設にはならないと思う。言ってみれば「抗生物質漬けで、雑菌の無い」街、なんだろう。
「峠の茶屋」は、裏街道の消滅とともに、姿を消したろう。が、その役割も消滅しただろうか。
私が以前から着目しているのは「駅前旅館」である。かつて、表街道の宿場では「飯盛り女」が存在した。彼女らは名目上、飯屋の女給であるが、旅人に夜も鬻(ひさ)いでいた。当局もそれを、黙認していた。
駅前旅館はかつての宿場のそれであり、流しの商売人などが宿として利用していたが、その結果としての行為は、必ず存在していたろう。ま、現代のビジネスホテルと「デリヘル」、ということだが。
三陸の話に戻す。真の復興とは、町としての形では無く、機能を復活させることだろう。外部の人間が素通りまたは隔離され、現地の人間との自然な交流が失われ(=官製交流はあっても)、そして町は老齢化していく。
この三陸が、その様な急速な現代化が進行することは、復興では無く破滅だろう。