20数年振りに三陸を訪れた。もちろん、震災後初。あの震災からの復興を自分の眼で見たかった。今回の旅の前半は、「大船渡線BRTライン」。BRTは、旧鉄道路線をバス専用道にして、バス運行する(一部、一般道も走る)。そしてこの線は、あの陸前高田を通る。 以前、仕事で陸前高田を訪れたことがある。もうすっかり忘れているけれど、恐らく港に近い場所の寿司屋か居酒屋で夕飯を取ったと思う。今回いったんは、陸前高田に泊まろうと思った。が、完全に失われた町の後に、超人工的な町が造られている。しか
明治維新直後、それまでの服制を見直す意見が出た。「服制改革内勅」といい「袞衣冕服(こんいべんぷく)」「衣冠束帯」等という平安時代以降の伝統的な装束を、神武天皇の時代に戻す、という案だった。 『明治4年9月4日(1871年10月17日)、「服制改革内勅」が出された。この内勅は従来の服装に拘る華族に対するもので、衣冠などの服装は軟弱であり、神武天皇や神功皇后の頃の姿に戻るべきとしている。この「神武・神功の頃の姿」とは「筒袖・細袴」を意味しており、洋服もまた「筒袖・細袴」なので、
阪神タイガースは阪神電気鉄道(現・阪急阪神ホールディングス・グループ)の、主要子会社である。ところが「阪神タイガースの方がむしろ、親会社。阪神電鉄は、阪神タイガースで持っている」という見方がある。それだけ現場が強力なのだ。 私はかつて、阪神タイガースの仕事をしたことがある。その時の取材ノートに次の通りのメモがある(厳密な日付があるが、そこは非公開。15年以上経っているので内容は時効だろう)。 ・ユニフォームデザインについては、現場主導型でフロントのコントロール外。 ・出
4年前の連休中、卒業後初めての高校同窓会があった。 その会で私に駆け寄る女性がいた。見覚えも聞き覚えも無い女性だったが、私の姉と同じバレエ教室に通っていた時期があった、という。 9クラスあったその高校では3年間、私はずっと男子クラスだった。1年生の時、音楽系のクラブに所属していたがすぐに辞めてジャズロックやアメリカンロックのバンドを組んだ。同窓会当日は再会セッションで登壇したが、彼女が私に声を掛けたのは受付すら始まっていない時間だった。 姉は、小学生の時から地域のバレエ
私がジャズを聴き始めたのは、71年。マイルスが電化しウェザーリポートがデビューした時代だった。時代は大きくうねっていた。 ジャズ楽器で初めて電化したのはギターだろう。管楽器やドラムに比べて遥かに出音が小さいギターが、最も早く増幅化されたのは当然だった。 続いてオルガン。ただ、オルガンは純粋に電気楽器ではあるが、音楽的に電気楽器であるかというと、難しい問題がある。中でもハモンドオルガンは、歯形が付いた円盤を回転させて正弦波を生むが、狂信的なファンの中にはアンプを通さずとも(
音楽のこと。これは、一生、書き終わることが無いくらいに多い。 特に、ジャズ。71年4月、高校の入学式の日にそのままヤマハに行って、生まれて始めてのジャズアルバムを2枚、買った。以降、現在に至るまでここ数年は、年に60〜100枚超のアルバムを聴いている。時代的には、70年代の爆発から80年代の拡大期を実体験出来たことが、貴重だった。 さて、その本筋は追々、書いて行こうと思うが今日は全く、別の話。 日本では大きなマーケットとは言えないが、アメリカでは確実な存在である「ニュー
知人が、定年まで数年を遺し、早期退職した。 311。彼は、ある大企業の総務系に所属し、震災復興の先遣隊として現地に赴いた。先遣隊とは、復興後のインフラ整備を目的とした企業の自主的活動だが、その実は、無報酬の政府業務だった。 知人は、放射線値の高い被災地で放射線量などを測量し、環境省に提出した。が、その値を見て「測定方法が間違っている。測り直せ」と、受け付けられないことがあった、という。 復興インフラの整備とは言え、復興庁や環境省の予算は限られているし、国民に監視されてい
アサヒ・スーパードライが何故、成功したのかという話がある。それは、通常のアルコール度数よりも高く、炭酸もキツめ。本来、アルコールも炭酸も人間の身体には害があり、それが喉を通過する際に脳の血液がいっとき、喉に集中する。それで軽い酸欠になるそうだ。 ドキュメンタリーなどでギャンブルに嵌まる人にその理由を聞くと大抵は「いっとき、煩わしいことを忘れられる」と、云う。まあ、こちらも軽度の麻薬ということだろう。私は一切やらないので分からないけど。 私の場合は、細部に拘る。収集品やアー
ある大企業の企業家による、人生相談。画像はその一部だが、子どもたちを進学校に入れて手が離れたので、再び仕事を始めた。容姿に自信があり、周囲からもそうゆう目で見られていると思う。若い頃、恋愛経験が少なかったことがずっと心残りであり、不倫したくて堪らない、と。 が、その企業家は極くごく、在り来りな返答をする。朝日新聞Be「悩みのるつぼ」ならば、もっとマシな回答があるだろう。 確かに私の周囲にも、悲惨な離婚経験者はいる。が、一度の人生なのだ。やらずに後悔するより、やって反省した
私が入社した頃、うちのボスがお気に入りの協力会社社員が、6人で独立した。最年長の社長で、40代初頭。うちの担当だった2人は共に最年少で、30代。 仮に、企画担当をA、営業担当をB、進行担当をCと、呼ぶ。通常彼らは、3人でチームを組む。前述した様に、企画Aと営業Bは同期で、この新しい会社の役員だった。独立した6人はそれぞれ、企画と営業としてコンビを組んでいたが、うちの担当の2名は特に売上が良く、最年少ながら役員会では声が大きかったそうだ。ある別の役員からは、Bを「天上天下唯我
今朝、初めて年金事務所なるところに行ってきた。退職した場合、年金がどれだけ受け取れるかを知るために。 この4月で勤続41年となった。65歳まではあと、1年半。うちの会社は今、中高年の途中退職者はほとんどいない。若年層ではあるが、それは職業選択のミスということだろう。 それでも、バブルの時代は多かった。入社した頃「アルバイトの額が給料を越えたら、独立しろ」と、言われていた。うちの会社は、アルバイトが暗黙の了解で認められていた。我々、営業系はほとんど無かったが、企画開発系は全
今朝も、辛いニュースを読んだ。将来を渇望されていた女性研究者が生活に困窮し自ら命を絶った。 思い起こせば、幸せな学生生活だった。大学を卒業して入社した会社に、今も41年経って勤めているのだから、こちらも幸運としか言い様が無い。 中学校では野球部。万年補欠だったが、嫌な思い出は無い。そして、GSブームからフォークブームに乗って、バンドを組んだ。 高校時代は、バンド一筋。そのメンバーとは数年前、60歳を迎えた同窓会で演奏を披露した。 大学では、人気ゼミの運営と軽音楽部。3
学生時代、様々なバイトを経験した。通っていた高校の先生がたまたま客として来、数日で辞めさせられたビアホールの店員というのもあったが、総じて楽しかったし楽(ラク)だった。電報配達などは「簡単で楽だから、職員になれ」とまで言われた(従わなくて良かったが)。人間関係で苦労したことも皆無だった。 デパートの催事では期間中、設営と進行管理を手伝う。だいたい、正社員など立ち会っていない。それぞれ流しの「間道(かんどう)」の方々で、暇な時間帯に私の似顔絵を描いてくれたり「蝦蟇の油売り」の
かつて、集中的に農家を取材した話を先日、書いた。 ある地域で、その土地と何の地縁も血縁も無い若い夫婦が、苦労工夫して様々な野菜を育て、成功していた。 その苦労であるが、過疎地の農村で放棄農地を探していた時、無償で農地と家屋を貸してくれる人と出会った。彼らは荒地を開墾し、古い家屋を自分たちでリフォームし、頑張っていた。 ところがある日、その大家が「孫が帰って来ることになったので、返してくれ」と、言って来たらしい。彼らは振り出しに戻った。その後、同じ様な事態があり、その時に
平成最後の土建屋政治家、二階俊博の地元和歌山を中心とする「近畿自動車道紀勢線」が全通に向けて動き出した。 民主党政権時代に停滞した開発は、自民党が政権を奪取して一気に復活した。その時、地元での祝賀会に来席していた二階に対して記者が揶揄すると、凄い勢いで激怒していた。 さて、二階俊博と井脇ノブ子。井脇は、85年に国際海洋学園を静岡県に開校しているが、静岡県はかつて、二階が政治活動を開始した土地である。さらに、第二高校は二階の地元である和歌山県で開校した。 井脇の躓きは、海
「貯蓄ゼロ世帯調査」。アベノミクスでそれは改善されたとされている。が、実態は調査方法を変更し、仮に次の家賃と電気代等を支払えばゼロになる様な世帯をもゼロとはしていないというトリックらしい。 推測では全世帯の80%近くが「貯蓄ゼロ世帯」。何とも恐ろしい話だ。 ところが巷では、新車やほぼ新車に近い自動車が街を走り、地方でも新建材の真新しい家がどんどん経っている。いったい彼らは富裕層なのか? 貯蓄ゼロ世帯は何処にいるのだろう? 以前、仕事で農家を集中的に廻ったことがある。日本