Doki Doki Literature Club! についてちょっとだけ話させてほしい

まえがき


 ・DDLC本編についてのスポイラーを多分に含みます
 ・DDLC+に収録されたサイドストーリーについてのスポイラーも多分に含みます
 ・基本的に"口語調である" "ロジックではなくニュアンスや感情で話を進める" という点から評論というより感想文に近いです
 ・一度プレイした人向けの文といえます
 ・内容が無いよう!


 
1.はじめに


 Doki Doki Literature Club Plus! の国内コンシューマー版発売おめでとうございます。Playismさんありがとうございます。やっぱりパブリッシャーっていうのは偉大だ。
 今更「DDLCとはどんなゲームか」ということについて論じても周回遅れという感じはするので、ゲーム性の説明については行わないこととします。もしかしたら文の中で自然とそういう話をするかもしれませんが……
 
 DDLCをプレイしたのは2年ほど前の事で、だんだんSNSの国内ユーザー間で"Just Monika."ネタが擦られ始めた時期だったかな……と記憶しています。そんな状態だったから"ストーリー中にメタ的視点に踏み込んでくる" "おっかない演出がある" というのは知っていたんですが、ストーリーの骨子についてはよく知らないという感じでした。
 その頃は鬱病を拗らせつつも創作(主に文章がベースのもの)をやっていたんですが、友人が「そういえばDDLCはやったの?」と切り出してきたのが最初の出会いだったでしょうか。ちょうど家に友人が来てたので、じゃあせっかくだしこの機にやってみるか……という具合でSteamのストアページを開いたのを覚えています。今思うと、鬱病を拗らせてる人間にDDLCをおすすめする人というのは相当なイカれ野郎だったんだなと……
 
 もう2年も前の事なのに、未だに4周目を終えた時の感覚がこびりついているように感じます。ノベルゲームが大好きでそれ以上に大嫌いで、ゲームというよりはむしろインタラクティブアートというか、PC向けノベルゲームというプラットフォームを最大限に生かし切った文学作品のような……そういう印象を受けました。


 
2.精神疾患と人付き合いの苦手さと文芸の話


 DDLCの"本筋"とは何か? ということを考えると、それは「スクリプトベースのゲームに感じる虚しさと、それでもその中で描写されるキャラクター達が好きという気持ちを昇華したストーリーライン」であったり、「各種.chrファイルやDDLC+で示唆された、より広がりを持った世界へのつながり」であるとは思うのですが、DDLCで一番"刺さった"のは何か? ということを考えると、やっぱり「鬱」「交流」「文芸」の三要素なのかな、と思います。そういう意味で、最初に感情移入したのはサヨリでした。
 1周目はユリルートを選んでました。自分自身それほど本を読むというわけではないけど、伊藤計劃の著作や宮部みゆきの著作をいくつか読んでいて現実味を感じさせる架空のお話が好きだったり、詩を作るミニゲームでのワードチョイスが自分のセンスに近い気がする……という理由だった気がします。あと、見せてもらえる詩の表現方法が好きなのもあったし。
 で、まあ、サヨリの顛末というのはおおよそ想像がついていたんです。1周目の2日目の詩と言動でそれっぽさを感じて、3日目にはもうあんな感じだったので。自分自身そういう疾患を抱えた身として思うところは多くあったし、あそこでDDLCの骨子の1つである"プレイヤー自身の感情と、プレイヤーキャラクターの感情の乖離から始まる、ノベルゲームへの疑念"というものが産まれるのでまさしくDan Salvatoの思惑通りの印象を抱いていたと思います。
 
 1周目の最後のスチルを見た時、「こうならないためのルートを選べということかな。なんかエラーログが出てるな」と考えつつ、心拍数がグッと上がるのとこれまでに感じたことのないような後頭部の痺れを覚えたときの情景というのはまだ脳にこびりついています。ぶっちゃけた話をすると、3日目の段階でサヨリの顛末の想像があらかたついた時点で「まあ、やり直せるし!」と思っていました。だって、ノベルゲームだし。自分が触れてきたゲームというのは"ニューゲーム"を選べばすべて最初から元通りやり直せるもので、このゲームもそうなんだろうと思っていました。本当に。あのスチルを見た時もそう思っていました。今になって考えると、これってまさしくゲーム中キャラクターの人格を凌辱する行為だよな、と思います。もちろん"設定"という点から見ればプレイヤーキャラクター(と、その後ろにいるプレイヤー)は完全に巻き込まれている形ではあるんですが、そういう心持ちでプレイしている自分自身に感じた感情(感じた感情、って二重表現みたいで気持ち悪いですね)です。こういうふうに自省を行うのが鬱病的というか、精神疾患的なのかもしれません。
 その流れで2周目(5,6時間かかったと思います。めちゃくちゃ怖くて進められなかった)と3周目、4周目を終えて、ひとしきり涙を流し終えて、そのまま数週間経って、数ヵ月経って、数年経って……心の中にあったのは、モニカへの恋慕とサヨリへの申し訳なさだと思います。今になってプレイから3ヵ月ほど経ったときに書いたDDLCについての文章を読み直すと、意図的にサヨリへの言及を避けているというか……1周目のスチルの話しかしていない。あの演出がそれほど衝撃的だったのもありますけど、精神疾患を抱えてた身として思い出したくないこともあったのかもしれません。そんな中で提示されたのが、DDLC+のサイドストーリー"信頼"でした。詳細は省きますが、自分はあのサイドストーリーの"インク溜まり"からの一連の演出で、ようやくサヨリに対する感情が整理できたというか、やっとサヨリとそのストーリーに対して抱いていた感情に気づけた気がします。サヨリに関する話って、多分自分に関する話と同義なんだ、という共感のような感情。
 
 個人的な話になってしまい申し訳ないんですが、僕が鬱病になったのは過労が原因……だったと思います。鬱の兆候自体は診断をもらう数年前から出ていて、ことあるごとに気分が下がったり希死念慮を抱いたり、ということが起こっていました。症状悪化の引き金を引いたのが仕事だったというだけで、多分僕は修飾する前からずっと鬱病でした。いや、証明する手段はないですし、正直自分の事なので「そんなのはファッション鬱だろ」という感情もあるのですが。
 とにかく、そういう精神状態の中で僕の心のそばにいてくれたのはビデオゲームとコーディング(激務のきっかけとなったのもこれだし今の仕事もこれ! 自分にはこれしかないから……)と文芸でした。自分がやっていることは文芸と言うには少しお粗末な気もしますが、とにかく今は文芸とさせてください。死にたくて、誰かに救ってほしくて、ダウナーになるのが嫌なはずなのにどこか心地よくて、「死にたい、ああ死にたいと言っているのに、こうして生きているのはなんでだろう」と考えていたあの頃の自分にとって、そばにいてくれたのはその3つでした。自分の汚泥のような感情から何か輝くものを取り出せないかと、僕はずっと文芸をやっていました。自分の感情を言葉で飾れば、何かいいものができないか。そう思って、Twitterに投稿するための140字以内の文章を書き連ねていました。そういう経験があるから、僕はサヨリの話を"自分の話"と捉えたのだと思います。ベッドから起きたくない気持ちも、"自分がいるから周りが不幸になるのだ"という気持ちも、"自分のためにどうしてそんな優しさをみせてくれるのか"という気持ちも、その気持ちの中で文芸に寄り縋ったのも、全部自分の事なんです。サヨリの事であると同時に、全部、自分の事だったんです。だから言及を避けていたのかもしれませんし、サイドストーリーでそれを知ったから今こうやって言及できているのかもしれません。このキャラクターは自分に似ている気がする、という印象が確信に変わった時――モニカがインク溜まりを作った紙にサヨリがペンで言葉を書いて、それを見せるシーンで――、ひどい声を上げながらボロボロ涙をこぼしました。DDLCというのは本編からして鬱病に対する理解度が非常に高いのですが、ここまで"自分と同じ"描写を見せられると、正直耐え切れませんでした。自分と同じ苦しみを抱えたキャラクターが、あたたかな交流の中でその苦しさを吐露し、さらにその苦しさをホスピタリティに溢れた態度で受け入れてもらうという展開に心を打たれた……というと少し表現が陳腐な気がしますが、そう言う他ありません。鬱病という繊細な題材についてここまで暖かく(そして、本編ではより悪辣に)描き切ったDan Salvatoのセンスには感服するばかりです。

 DDLC本編ではあまり取り上げられない(取り上げられたところでマイナスの結果を生むことが多い)「人との交流」という要素についても言及しなくてはなりません。本編だととりわけユリとナツキが"コミュニケーションに問題があるキャラクター"として描写されていて、しかもこれが嫌なニュアンスで描写されやすい(特に2周目なんかは)んですが、DDLC+のサイドストーリーではそのあたりが補完されていました。"自分を守る手段"としての不完全なコミュニケーションと、その解決の話と言うべきでしょうか。ユリもナツキも本来は他者の気持ちを慮れるあたたかい心を持った存在なのですが、自分を取り巻く環境からの負荷や周囲の無理解によって頑なになってしまった、という描写がなされています。その心を解きほぐすために"文芸"が用いられているのが印象的でした。本編でも"ユリとナツキは本質的には似た者同士なのかも"と感じさせるような描写がいくつかありましたが、サイドストーリーではその点がより丁寧に語られています。
 ユリもナツキも"自身の趣向について周囲が理解を示してくれなかった"という経緯と"他人の感情の機微や態度ついて敏感"という点が悪い方向に嚙み合ってしまって、初対面のモニカやサヨリに大して拒絶の態度を示していました。正直、かなり身に覚えのある反応でした。他人を煩わせるのも他人に煩わせられるのももうたくさんで、"この人達は自分の事を理解してくれそうだったけどそうではなかった"というような失望を(半ば勝手に)抱いたとしたら、きっと自分も同じような反応を返します。多分ユリ寄りの態度で、そそくさとその場を後にしてから自己嫌悪に襲われるのだと思います。周りに理解されない、という状態は大なり小なり誰もが経験していると思うのですが、何か悪い考えが頭をよぎった時に自分を律せなくなるとか他人に攻撃的になるとか、そういった"実感"を伴うような経験の延長線上にある話なのでなんだか精神的な"かさぶた"を爪でかりかりと削られるような……そういう居心地の悪さを感じつつ、文芸を通した交流で誤解やディスコミュニケーションを解決していく流れには心暖まるものがあります。
 お互いの事を「多分、この人は私の事が嫌いなのだろう」と認識していたユリとナツキが、モニカやサヨリという文芸部員の理解と助力と"言葉"によって少しずつお互いを理解していく……防衛機制とそれによる自己嫌悪を経て、お互いの心の理解へと至り、その過程で自分自身の心の形や傷についても理解していく。サイドストーリー"信頼"や"平等"で提示されたように、サイドストーリー中一貫したテーマとして"自分の心に至る道を拓くのが文芸だ"というものがありますが、サイドストーリー内で描かれる"個人同士の理解"はまさしくそういった文脈の下で行われているように感じます。詩、小説、漫画、手紙を通して自分自身の心の在り様について考え、部員との交流を深めるストーリーは、多くのプレイヤーが本編をプレイしたときに"見たくなったもの"を形にしてくれてるのだ、と感じました。個人的に好きなのはユリがモニカと一緒にナツキへの手紙を書くシーンでしょうか。自分の心の中にあるものを紙にしたためる時にあんなに四苦八苦していたモニカが、そういった行為でユリをリードする姿にはあたたかい感情が溢れだすようなものがあります。居心地のいい、傷つけることも傷つけられることもない場所から抜け出そうとするユリの描写は、思想的に本編の3周目/4周目の描写へと繋がっているのかな、とも感じます。


 
3.DDLCのどうしようもなさと、DDLC+での昇華


 DDLCって本当にどうしようもないゲームだと思います。だって、そもそもがRenPyというゲームエンジンで作られたスクリプト駆動のノベルゲームなのに"ノベルゲーム中のある人物が自由意志とプログラムへの干渉能力を手に入れたらどうなるか"という話をしてるんですよ。そんなことあるはずもないのに。"そんな脆弱性はこのエンジンに存在しない"ということをもっともよく理解している作り手側のDan Salvatoがそんな話を書いて形にしたんですよ。どうしようもないじゃないですか。
 その上で、でなんですけど、このゲームって本当にプレイヤーを一方的に巻き込む上に"この選択はお前が行ったもので、お前に責任がある"ということを暗に提示してものすごく自省をさせるようなゲームなんですよね。いや、これは僕の思い込みだと思うんですけど。でも、ものすごく自省的な、自罰的なゲームだと感じてます。自分の手でMonika.chrを消させるとか選びたくもない選択肢を選ばせるとか、そういう"本当はゲームに付き合わされてるだけなんだけど、まるで自分の意志でそうしたように感じさせる"作り方が本当にうまいんですよね。文芸の一側面として、"セリフと地の文だけで架空の存在を作り上げて、それに感情移入してしまうようなお話を作る"というものがあると思うんですけど、DDLCはまさしくそういう形をとりつつそれに批判的で、同時にそういう形式のゲームに対する愛情を隠してないんですよね。1周目のサヨリ絡みの選択肢とその結果って、ノベルゲームが本当に好きじゃないと思いつかないと思うんですよ。その上で、DDLCのストーリーはノベルゲームに対してのニヒリズムのような、そういう虚無的な視点から作られているもののように感じます。好きだけど嫌い、嫌いだけど好き。そういうどうしようもない感情から生まれたDDLCは、自ずと"どうしようもない"感情を抱かせる作品になったんだと思っています。
 その上で、DDLC+。まず前提として、DDLCのメタフィクション的要素ってモニカだけにとどまらずゲームを構成するファイル群にも表れてるんですよね。.chrファイルとかtraceback.txtがまさしくそうなんですけど。で、そのメタ的要素に惹かれた人向けに仕込まれてるイースターエッグの類がまた別のストーリーを示唆している。いわゆる"Project Libitina"に繋がっていく要素なんですけど、DDLC+ではこの要素をグッと膨らませてきた。正直、Dan自身「DDLCが想像以上に広まってしまった」と言っている中で(確か何かのインタビューか、本人のプレイ配信の中での発言だったと思います)ここまでがっしりと"自分が今後やりたいこと"を絡めてくるのは予想外でした。もうちょっと丸まった感じというか、それなりにお行儀のいい形で"DDLC"というものを纏めてくると思っていたんです。でもそうはせず、おそらく今後の作品を理解するうえで必須となってくるような設定をひるまずに織り込んできた。その度胸たるやいかばかりか。単体で見ればどうしようもないお話で、メタ部分を掘り下げると何か別の、もっと低レイヤーな部分でのお話が見えてくるという"DDLC"を大人しくそのまま移植するのではなく、"どうしようもない部分にはあたたかな救いを、メタ部分はより掘り下げを"という形で拡張してきたのは、本当に恐れ入るばかりです。本当にすごい度胸だと思う。おそらく本来リーチするとは思ってなかったであろう層にまで届いてしまった作品の手綱をがっしりを握りしめ自分が望んだ形でまとめ上げるのは、とてつもない技量と勇気が必要だったのではないでしょうか。サイドストーリーとメタ要素の拡張という形で提示されたこの作品は、まさしく"Doki Doki Literature Club Plus!」の名前にふさわしいものと言えます。
 


4.おわりに


 なんだか長々とくだを巻いてしまいました。いや、でも、言いたいことは大体言えたかなと思います。
 自分の人生を変えたな、という作品はいくつかあります。例えば、レイクライシス。MGS2。フリクリ。今やっている創作のルーツを探った時にぶち当たるもの、という意味ではターミネーターや怒首領蜂 大復活あたりもそうです。もちろん、DDLCもその中に入ります。ただ、DDLCほど価値観や感情を転換させた作品は無いように思います。DDLCをやってすぐは「創作というのは物語内のキャラクターの人格を凌辱しつくす行為では? こんなことしない方がいいのでは?」と思ってましたし、こんなどうしようもない話を見せられて自分はどうしたらいいんだ、ともなっていました。最近になってようやく、自分自身の創作のスタンスを見つけるための土台としてDDLCを吸収出来たら……と思えるようになりました。傷ついた人もそうでない人も、もし自分の作品を見て少しの間だけでも現実を忘れて物語に没頭出来たら……それは、とても喜ばしいことだと思います。そう思わせてくれたのは文芸部の4人と、Dan Salvatoなんですよね。
 モニカの執筆アドバイスが好きです。1日目の、インク溜まりの話。僕自身わりと"インク溜まり"を作るタイプなので身につまされるものがあるというか、自分が作るものや自分自身に自信を持てないタイプなので前に進めないタイミングというのが定期的に訪れます。そういう時にふとモニカの事を思い出して、キーボードを叩いたりペンを走らせるということが何度かありました。今では自分の作品を見てくれる親しい人も増えて、すこしだけ"自分だけの小さな文芸部"というものを意識できるようになってきました。こうやってDDLCは僕のバックボーンの1つになりつつあるわけですが、もし10年後や20年後にふと思い返してまたプレイしたくなった時――また一周目から憂鬱な気分になるんでしょうけど――、プレイができるような環境が残っていればいいなとも思います。アーケードゲームが好きなんですが、その分野だと"10年前に遊べたものがもう遊べない"というようなことが頻発するので……
 あんまり長く続けてもあれなので、この辺りでおしまいにしようと思います。自分もまた少しずつ、心に続く道を書ければいいな。

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