子供がドアに指を挟んで救急車で運ばれた話
子供がドアに指を挟まれた。
ずっと避けようと気をつけていたのに、ついに起きてしまった。
***
うちには、未就学児が3人いる。
子供が園から帰ってくると、家の中はまるで園そのもので、誰かが走り回り、誰かが踊り、お絵かきやおもちゃで遊ぶ声が絶えない。
笑い声や時に泣き声も混じりながら、我が家は毎日が小さな冒険の舞台だ。危険なものは片付けているつもりだが、家事をしていると、どうしてもほんの少しだけ目を離してしまうことがある。
その日、寝室の電気がつけっぱなしになっているのが見えたので、
「ちゃんと電気を消して、ドアを閉めておいてね」
と上の子に声をかけた。
几帳面な上の子は、
「はーい」
と元気に返事をして、言う通りに行動してくれた。そこまでは、確かによかったのだ。
しかし、その後、なんとなく空気感が変わった気がして、私は夕食の片付けをしていた手を止め、ドアの方を見た。
さっきまでテレビを見ながら踊っていたはずの下の子が、上の子の横に無言で立っている。その姿に違和感を覚え、よく見ると、その顔は苦痛で歪んでいた。
驚いて駆け寄ると、上の子が勢いよくドアを閉めた瞬間に、下の子が近づき、左手の薬指をドアの蝶番(ちょうつがい)に挟んでしまったのだった。
急いでドアを開け、子供の指を確認する。頭が真っ白になり、目の前がぼやけるような感覚に襲われた。
子供の指は明らかに変形していて、見たこともない形になっていた。指が曲がり、血がにじんで紫色に腫れ上がっている。私は心臓が締めつけられるような恐怖と動揺の中で、ただ震えながら呟いた。
「指が…指が…変な形になってしまってる…」
どうしたらいいのか全くわからなかった。動揺して、頭は真っ白になった。
涙目になりながらも子供を抱き上げて、ただその場でうろたえるばかりだった。そんな私を見た夫はすぐに救急車を呼び、落ち着いた声で状況を説明していた。私とは対照的に、冷静で頼りになる夫だった。
まだ言葉がたどたどしい下の子は、
「いた…いた…(痛い、痛い)」
と痛みをこらえながら必死に訴えていた。その小さな声に胸が痛み、私は
「大丈夫だよ、大丈夫だよ」
と繰り返し声をかけた。しかし何が大丈夫なのか、根拠は全くなかったし、自信もなかった。
ドアに挟まれた形に変形した指は、見るからに痛々しく、私は頭の中で何度も
(骨が折れているのかもしれない)と繰り返した。
こんな小さな子供の骨折がどんなに大変なことか、想像するだけで恐ろしく、胸が締め付けられた。
一方で、夫はすぐに救急車が来てもいいように、子供と自分用の水筒やお菓子、おむつをカバンに詰め、保険証まできちんと準備してくれていた。
真ん中の子供は、
「大丈夫かな? 指、曲がってないかな?」
と心配そうに下の子を見つめていたが、私は動揺し過ぎて、その優しさに気付いてあげる余裕もなかった。
上の子は、自分がとんでもないことをしてしまったとショックを受け、放心状態で口をぽかんと開け、その場に立ちすくんでいた。
「あんなに、ドアを閉めるときは、そっと閉めなさいって言ったのに…」
と叱ったが、それ以上何を言えばいいのか分からなかった。
パニックに陥っている私は、まずは下の子を落ち着かせることを優先し、後のことはすべて夫に任せて救急車に乗り込んだ。
真ん中の子供は、
「いっしょにいく!」
と泣きながら言ったが、
「ママは必ず帰って来るから、パパと先に寝るんだよ。あとはよろしくね」
と何とか伝え、家を出た。外に出ると、すでに救急車が待っていて、救急隊員が走り寄ってきた。
初めて救急車に乗ることになった下の子は、不安そうにきょろきょろと車内を見回していた。
「ママ、ここはどこ? みんなはどこに行ったの?」
と幼いわが子は、表情で訴えていた。
その大きな瞳に映る不安に、私は
「大丈夫だよ、ママがいるよ」
と繰り返し声をかけた。
救急車の揺れに合わせて、下の子は次第にうとうととし始めた。抱っこ紐に包まれた体が温かくなり、安心したのだろう。
救急隊員が近くの病院に連絡を取ってくれたが、夜間にも関わらず患者が多いのか、なかなか電話がつながらなかった。結局、少し遠い病院へ運ばれることになった。
子供が生まれてからというもの、こんなに遅い時間に外へ出ることはなかったので、夜の冷たい空気が肌に刺さるように感じた。どうなってしまうんだろう。私は変形した指を見た衝撃で、何も考えられなかった。
「旦那さんは、一緒に来ないんですか?」
救急隊員のその問いには、どこか家庭内での虐待を疑うような冷たい響きがあった。
「うちにはまだ2人、小さな子供がいるので、夫がその子たちを見ています」
と答えると、救急隊員は
「ああ」
と小さく頷いた。
ぼんやりと、ケガで救急車に運ばれると家庭内暴力の可能性も確認されるんだなと思った。もちろん、その心配はないが、それでもこの状況で疑われることが、どこか悲しく感じられた。
私は黙って、救急車の中の様々な装備を見つめていた。
冷たく輝く金属のストレッチャー、規則正しく点滅する機械のランプ、救命士たちの張り詰めた顔。
そのすべてが、異質で、非現実的な風景に感じられた。私の心の中の不安や焦りをより鮮明に浮かび上がらせる。何かを話す気力もなく、ただじっとその空間に身を委ねていた。
ふと、真ん中の子供に読んであげた「救急車の中はどうなっているのか」という図鑑のことを思い出した。
あの時、救急車の中にある器具の説明を、興味津々で聞いていた子供の顔が浮かんでくる。
あれはまるで冒険の一部のようで、何も危険がない場所から見た「未知」の世界だった。私たちはその時、救急車という存在を現実的に捉えていなかった。
ただの知識、ただの興味。だけど今、その救急車の中に実際にいて、現実に直面している自分がいる。そしてその現実は、何とも冷たく、厳しい。
何も事故も問題も起きない日々、それはどれほど尊いものだったのだろう。
何気ない日々、当たり前のように過ぎていく平凡な時間。子供たちの笑い声が響き、夕食を囲む団らんがある日々。それは気づかないうちに、どれだけ私にとってかけがえのない幸せであったか。今になって、その価値の大きさが胸に迫る。
私はただ、何も起こらない日々に感謝し、それを再び手にしたいと強く願った。
救急車の中で、無機質な装備に囲まれながら、心の中では静かに祈るような思いが湧き上がる。
「どうか、また平和な日々が戻ってきますように」と。
その願いは、無音の救急車の中で私一人だけのものだったが、その重さは計り知れなかった。
***
ようやく夜間の病院にたどり着いた。
静まり返った待合室には、私たち以外に誰もいなかった。その静寂は、まるで世界が止まったかのように感じられ、緊張と不安がさらに重くのしかかってきた。
そんな中、ぐっすり眠る子供を見下ろすと、病院内の温かさとフリースの厚さのせいで額にうっすらと汗が浮かんでいるのがわかった。
抱っこ紐で抱えた小さな体からは、私の胸元に熱が伝わり、その汗とおむつの蒸れが私まで暑く感じさせた。それでも、無事に病院までたどり着いたことに、少しだけ安堵の気持ちがわいてきた。
診察室に呼ばれ、医師の指示に従ってレントゲン室へ向かい、左手の薬指だけを撮影した。
レントゲン撮影の間、私の心は不安と恐れでいっぱいだった。
何かが悪い方向に進んでいるのではないか、最悪のケースばかりが頭をよぎった。指を固定するための小さな台に、わが子の柔らかい手が乗せられるのを見ていると、その小ささと儚さに胸が締め付けられるような思いがした。
少し待った後、同じ診察室に私たちは呼び戻された。
診察室の医師の前には、黒と白のレントゲン写真が拡大されて張り出されていた。
わが子の小さな丸っこい手の骨が、くっきりと写し出されている。
その姿は、普段目にすることのないわが子の内側を覗いているようで、どこか神秘的に思えた。しかし、素人の私には、その画像から異常があるのかどうか、まるで判断がつかなかった。
医師はひょうひょうとした様子でレントゲンの解説を始めた。彼の穏やかな表情と落ち着いた声は、私の不安な心を少し和らげてくれた。
結果として、骨折もヒビもないと言われたとき、私は一瞬言葉を失った。
まるで胸の奥に張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、力が抜けた。
救急車で飛び込んできたことが大袈裟だと笑われるかもしれないと思ったが、その笑いすらも今は受け入れられる気がした。
「なんでもなかったのだ…」
そう思うと、心の底からほっとした。
そして、あんなに変形して見えた指が、今はただ少し赤く血が滲んでいるだけで済んでいるのを見て、急に笑いが込み上げてきた。
最悪の事態を想像していたぶん、そのギャップに戸惑いながらも、嬉しさがこみ上げてきたのだ。子供の穏やかな寝息が聞こえ、私はようやく安心して肩の力を抜くことができた。
「大袈裟だと思うくらいで、よかったんだ」
そう心の中でつぶやきながら、私は子供の温もりを感じつつ、ゆっくりと深呼吸をした。
その瞬間、すべての不安が溶けていくようで、胸に広がる安心感が、夜の静けさと相まって私を包み込んでいた。
***
病院で会計を済ませ、最寄り駅まで歩き始めると、ようやく抱っこ紐の中の子供が目を覚ました。
まぶたがゆっくりと開き、曇った瞳で辺りを見回す。その瞬間、私の中の緊張の糸が少しだけほぐれた。小さな手が私の服の端をぎゅっと掴み、いつも通りの安心感を求めているようだった。夜風が肌に冷たく、子供の体温が一層温かく感じられた。
「救急車で心配してやってくるくらい、不安だったと思いますから、絆創膏で十分だと思いますけど、念の為、添木でもしておきますか?」
病院での医師の言葉がまだ頭に残っていた。
私があまりにも動揺していたから、ただのかすり傷で済んだことに納得していないように見えたのだろう。
その必要もないのに、子供の薬指には小指と一緒に添木がつけられ、包帯でぐるぐる巻きにされていた。
「や!や!(嫌、嫌)」
いつもと明らかに違う、自分の指を見て、わが子はびっくりしていた。包帯に覆われた小さな薬指は、わが子にとって自分の体の一部ではないように見えたのかもしれない。
ぎこちなく動く手をじっと見つめていたが、やがて小さな声で「いや、いや」と訴えながら、あっという間に包帯を外してしまった。
その中から現れた添木に、さらに目を丸くする。見慣れない指の状態に、まじまじと観察するその姿が、なんとも滑稽で、私は思わずくすりと笑ってしまった。
しかし、その笑いは私自身の不安を隠すためのものでしかなかった。夜空の下、私は何度も「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせながら歩いた。まるで心の中で、何かが崩れてしまわないように。
***
自宅に着くと、もう22時を過ぎていた。
玄関を開けると、真ん中の子供がパジャマ姿で待っていた。小さな手にはお気に入りの子猫のぬいぐるみが握られている。その目には眠気と心配の色が混じり合っていた。
「だいじょうぶだった?」
不安そうな表情で、下の子をじっと見つめていた。その小さな顔には、まだ幼さが残るけれど、誰かを心配する気持ちは確かに本物だった。
「大丈夫だよ、何もなかったよ」
と優しく言うと、真ん中の子供はほっとしたように微笑んだ。その笑顔を見て、私もようやく少しだけ安心できた。
夫も、子供たちが無事であることに安堵の笑みを浮かべた。
しかし、奥の部屋では上の子が静かに座っていた。不安とショックでずっと放心状態だったらしい。心配と不安な気持ちを抱えながらも、眠気が勝ってしまったようだ。
家族全員が揃っている。
それがどれだけありがたいことか、今日は心の底から実感した。本当に、何もなくてよかった。
帰宅して一部始終を夫に話すと、私の中の張り詰めていた感情がようやく解けていった。泣きたいような、笑いたいような、そんな複雑な感情が胸を満たす。
ただ、家族が無事であることが、どれほど大切で奇跡的なことなのか、改めて思い知らされた。
何もなくてよかった。
そして、その言葉を何度も心の中で繰り返した夜だった。
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