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そこに愛はあるんか?

先日、この様な動画を観た。

見返りが全く無いにも関わらず女性に金銭を貢ぐ事で自身の存在意義を見出すという、いわばハードコアスパチャおじさんについての動画である。

私の心に残った出来事は、この動画を友人にも見せたのだがその友人の感想が「そこに愛はあるんか?」と悲観するものだった。

確かに、金銭奴隷側のニーズは女王に金銭を搾取される事を通じて自分の存在意義を見出す、女王側は楽に金銭を得られるという事で成立する契約関係と考えられる。そこには私たちが思い描く暖かい繋がりは存在しないのだろう。

しかし、本当に愛は必要なのだろうか。奴隷-女王二者のみの系を見ると、互いに幸福感を得られており理想的な人生を送っているのではないだろうか。それを関与しない第三者が評価するのは少々頭が高い行為なのでは無いかと考えた。

頭高くない?

確かに、金銭が尽きたら解消される持続性の無い関係なのでそれを悲観する気持ちも分かる。

では、その愛というものがあれば持続性は見込まれるのだろうか。末永く幸福・未来・a beautiful starは約束されるのか。

私はそれもまた曖昧なものだと思う。日々生きる中で経験が累積する事で価値観は変動し続ける。そんな不確実なもので成立する愛よりも金銭という絶対に揺るがない事物で繋がれた関係の方が縛りとしては強いのではないかとも考えられないだろうか。

どちらがより幸福を享受できるかは知ったこっちゃ無い。まあ、殺人事件の大抵の原因は金銭トラブルか怨恨・痴情のもつれなので行き過ぎればどっちもどっちなんだろう。

今回はもう少し愛について考えてみる。テーマは「愛の形無限に存在する説」である。

今回のタイトルでもある「そこに愛はあるんか」というセリフが有名なCMがある。その発言はCM内で、モラルの少々欠けた行為に大して投げかけられる言葉である。つまりは、ここでの愛は他者を思いやる精神が愛の根源or愛の顕在と捉えてると考えられる。ではその思いやり、モラルというものについて考えてみると、それは文化によって千差万別じゃないですか?という話である。

ふと思い浮かんだのは、パプアニューギニアの少数民族フォレ族である。彼らは死者の人肉を食す事で弔うという中々に奇抜な慣習を有していた。 もし日本で弔いの意を込めて人肉を噛み締めたら死体損壊罪一発OUTお先真っ暗間違い無しである。

しかし、ここで重要なのはこの行為は根本に弔いの思いがあるということ。それはつまり死者を忘れないという、死者への最大限の思いやりである。
それって愛じゃないですか?
そこに愛、ありますよね。

まあ何が言いたいのかと言うと、モラルや思いやり引いては愛の表現方法は土地時代というコンテクストがちょびっとでも変われば多種多様なんだからそこに愛はあるんかと問答無用で説き伏せる行為自体、実は愛がないんじゃないかということである。

異常プリオンタンパク質

ちなみに、食人行為は異常プリオンタンパク質が原因である致死率100%のクロイツフェルト・ヤコブ病を誘発する非常に危険な行為であり、実際その疾患もフォレ族の人々で初めて観測されたものなので、たとえ愛を表現したかったとしても命を賭してまでやる必要無いと思う。

最後にザコシの動画でもみて落ち着いて欲しい。それではまた。

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