想像力の欠如

今回は少しナイーブなテーマを扱う。

先日、スシローで取り皿や醤油差しを舐めるといった迷惑行為を行った高校生が損害賠償請求をされたというニュースが話題になっており、世論としては妥当という意見が多いように思えた。
また、同時期に発達障害者と思われる男性が駅のホームを下りて、電車を遅延するという出来事があり、こちらは怒り心頭という意見もあれば障害者ならば仕方ないという意見もあり賛否両論であった。

ここはnoteという手前、隙あらば自分の意見語りをさせてもらうと、前者は寿司テロやバイトテロ等に対して訴えられるという前例を作る事で大きな抑止力となるので有効だと考えた。
そして、後者についてはこと動画の撮影者については自らが制止できる状況であえて動画を撮影しているのだから、対応できるという権利を放棄しているためあまり文句は言えないのかもしれないと考えた。

その様に適当に思案していた時、ふと「この2つは同じ出来事なのでは無いか?」と思えた。

前者は単なる迷惑行為と見れるが、視点を変えると想像力という能力が欠如した障害者による仕方ない出来事とも捉えられないだろうか。(ここでの障害者とは多くの人間が自然と獲得する能力を有していない者という意味で使用している。より適切な単語があるかもしれないが、パッと思いつかなかった事と、後者との類似を強調するために使う事とした。)
逆に、後者は発達障害者による仕方の無い出来事と見れるが、この男性が障害者という確証は無い。その為、前者と同じく単なる迷惑行為とも捉えられないだろうか。にも関わらず、前者と後者では世論が大きく異なる事は非常に興味深く思えた。

何故前者に対し哀れんだり擁護する意見が少数的なのか。反対に後者は賛否が拮抗しているのか。
高校生は髪を染めてるし素行が悪そうだから?男性は母親と思わしき女性が抱きついていたから同伴を要する障害者に見えるから?
それぞれのバックグラウンドは全く不透明なのに何故こうも考え方が偏在するのだろうか。

障害者は英語でHandicappedという。
すなわち健常者と比して何かしらハンデを有する者という意味である。想像力の欠如とは立派なハンデであると思う。なのに何故高校生は障害者と見なされてないのだろうか。欠如した能力により健常者、障害者という振り分けが異なる事は少々奇妙に思えた。当然、社会保障や諸々の事情が絡む為に厳格に定義が取り決められているのだろうけれども、哀しくもそのセーフティネットから漏れた人間はどの位いるのだろう。

以上を踏まえると、前述したがそれぞれの人間を取り巻く背景が全く分からないのにも関わらず少量の情報で結論を下し、更に不特定多数の人間が閲覧するSNSで発信する行為は危ういものだと考えた。

沈黙は金、雄弁は銀というがまさに的を射た言説である。
情報学Ⅰで観た情報倫理ビデオを本当に笑い倒せるか、今一度黙考すべきかもしれない。


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