仮面を脱いで本当の自分を生きる
前回の投稿で、鍼灸師であることにもたれかかって生きることで自分の性別や性的指向に関するわだかまりや恥の感覚を感じずにいる状態を作っていたことを書いた。飼いネコのホクがそれを私に悟らせてくれたというお話だ。https://note.mu/banchan123/n/n66a8f0e0045b
じゃあこの性別や性的指向の周辺に滞っている、この闇のような暗雲はなんなんだということで、それを払拭する、霧散させるにはどうしたらいいんだということになる。それができれば、私の性別や性的指向というのは単なる私の属性でしかなくなる。が、ややこしいことに、この暗雲は私個人が作り出しただけのものではなくて、社会的な意識も参加の上で作り出されたものだ。もちろん、時代の意識もある。いわゆる先進国でのLGBTQI*に関する意識はここ10年ほどで加速度的に大きな変化を起こしている。が、同時にいまだ偏見を持つ人が多いのも事実だ。
ややこしいことに、私が思春期の頃はLGBTQIに関する意識は全くの暗黒時代で、「変態」「キワモノ」という見方しかなく、私はそれを呑み込んでしまった。当時11歳の私は、小学校の図書館で「同性愛」を調べた。「男女の成長した恋愛」に至るまでの成長期に見られる一過性の症状で、大人になってもそういう傾向があるのは病気であるというような内容が2、3冊調べた本に書かれてあったと思う。当時の私はこれを信じたし、周囲の大人たちもそれに沿った反応を示していたので、自分は病気だと思い込んでいた。しかも何度も女の子に恋をしていたので、これは不治の病いだから、隠れて生きるしかないと思っていた。つまりそういう自分を恥だと思っていたのだ。
これを隠して生きるには、そうでない自分を構築する必要がある。仮面をかぶる必要がある。が、そんなことを考える余裕も情報もない私は、二十歳代前半に海外に逃亡した。サンフランシスコという、当時からLGB**に優しい街であったにもかかわらず、心の奥底に巣食った恥は健在だったらしく、社会的に体裁の良い鍼灸師という仮面を被って長く生きた。もちろん、その恥をなんとかすべく鍼灸師になったわけではなかったが、辞めざるを得なくなって初めて、この仮面を脱ぐのはやばいと感じるようになった。
今だから仮面を被って生きていたという認識があるが、当時は鍼灸師である自分が全部だと思い込んでいた。鍼灸に没頭できることが嬉しかったし、これで自分はいろんな悩みや苦しみから自由になれるのではないかとさえ思っていた。もう完全に鍼灸師に同一化して生きていたのだ。私=鍼灸師だった。
だから辞めざるを得なくなった時、自分は死ぬと思った。実際この人は死んだ。ごくごく最近まで鍼灸師かヒーラーという仮面を捨てるのは辛かった。もう現実にはそういう仕事をしていないにもかかわらず、その仮面にしがみついていた。どうしてそこまでしがみ付かなければならなかったのか。
どんな人でも仮面を着け外ししながら生きている。例えば、仕事の顔と私生活の顔は自然と使い分けている。それは無意識にしていることで、ある仮面を脱いで別の仮面を被ったり、仮面を外して素の自分に戻ることもある。仮面が仮面であることが認識できていて、簡単に取り外し可能な状態は健康だし、パートタイムで仮面を被ること自体は生きていく上で必要なことでもある。
私のように仮面依存症になっているときは何かから逃げたい、離れたいと無意識に思っている。私の性別や性的指向の周辺に滞っている、闇のような暗雲である恥という感覚。これから離れたいわけだ。以下はスピリチュアル・リーダーであるティール・スワン氏の恥の解釈だが、とても納得のいく説明なので紹介したい。
子供時代に親や周囲の人たちにとって気に入らない、またはよろしくないと思われる行動や性格を指摘され、批判される体験があると、子供はそれを恥ずべきこととして捉えてしまう。子供としては一人で生きていけないし、親に頼るしかないわけだから、親に受け入れてもらうために、その恥ずべき自分の一面を自分から切り離し遠くへ押しやってしまう。そして親に受け入れられる自分を演じる。こうすることで親から拒絶されることは避けられるわけだが、自然な自分の状態を隠し、しかも切り離すことをする。結果として自分の中に二人の人格が存在することになる。一方は親や社会に受け入れられ、いわゆる世間でやっていけるのだが、もう一方は社会では受け入れられないと思い込み、いつも影でひっそり生きている。もともとあった満タンのエネルギーが二分され、しかも本来の自分が足蹴にされているわけだから、元気がなくなる。これが恥の構造だというのだ。
私はこれをしていた。鍼灸師という仮面で世渡りをすることで、本来の自分を切り離し、放置してきたのだ。私が男でも女でもないこと、女性に惹かれることを隠していたわけではないし、私の鍼灸の師匠や同僚もそれを知っていただけでなく、好意的に受け入れていた。そういうこともあって、私はもう性別と性的指向の件については自分の中でちゃんと決着がついていると思い違いをしていた。そして何よりも鍼灸をして患者も増えていたので、そういうことはもう気にしなくていいんだと思っていた。いわばそれだけ深く無意識で私の自然な一面を遠ざけていたのだ。だから仮面の人格を失うことは、急に社会ではやっていけない自分だけが残ることなり、自分自身からさえ隠れていたのに急に目の前に姿をさらすことになった。パニック状態だ。
しかし、不思議なもので、よくよくそういう自分を見てみると、大丈夫なんじゃないかという気さえしてくる。もう真っ向から見つめるしかなくなると、今までこんな自分ではやっていけないし、隠れているべきだと思っていたのだが、それは恐怖に囚われていただけで、実際の自分をそのまま生きてもいいんじゃないかと今思う。
こんなことは頭で理解するのはたやすいことだけれども、知らず知らずのうちにずっと恥の意識に囚われていて、本当にこれでいいとお腹の底から感じることがなかった。しかし鍼灸師もヒーラーも捨てていいと思うことで、やっと本来の私を自分の中心に戻すことができた。端の方に追いやってきた本当の自分を真ん中に据え直すことができた。割れてしまったガラスの大きな一片を元に戻し、自分が前より大きくゆったりした気がする。悪くないよ、こういうのも。
注
*LGBTQI: レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クイア(またはクエスチョニング)、インターセックスの略
**LGB: レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルの略