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【推しの子】考察 【隅付きカッコ】とアクアのナイフ

【隅付きカッコ】と絡新婦の理

 タイトルにもある【隅付きカッコ】、この意味は何だろうとずっと考えていた。
 ヒントは案外手軽に得られた。そのまま「隅付きカッコ 推しの子」で出てきた記事だ。

【推しの子】はなぜ“カッコつき”なのか? タイトルに隠された最大の謎と、楽しみな伏線回収

 42話での【役者】以外に、一巻各話冒頭でのインタビューシーンに顕著だ。
 【役者】【アイドル】【マネージャー】【ドルオタ】【映画監督】【女優】、肩書がズラリと並んでいる。並べられればピンとくるだろう。記事でも書かれていた通り、これは「役柄」だ。
 「役柄」だとして、何に対してのものなのか。そして、【推しの子】は何を意味するのか。

 ズバリ、【隅付きカッコ】とは配役された役名だと考える。館ものミステリでいう【館の主人】【客人1】【使用人】といった感じだ。その人物の属性を吸い上げて肩書とする以上に、そこに居合わせた人を役柄に据えていく性質があるのが「配役」概念のミソだ。つまりこの配役には、脚本という意図が存在している。

 では隅付きカッコが役名だとして、【推しの子】とはどんな役柄なのか。
 そのためにはまず「推し」とは何かに立ち返らなければならない。
 143話のルビーが端的に語っている。「推しがいると世界が輝く!このクソッタレな世界を丸ごと愛せるようになる!」「推しを推してる間は私の命にも意義があるって思える!」
 この感情、実は恋にも近いのではないだろうか。恋人のいる世界ならどんなにクソッタレでも愛せるようになる。恋人への愛で、自分に意義を見出せる。愛する人という意味で、推しも恋人も感情にそう大きな違いはない。
 推しの子に生まれ変わるのが推しの子だが、「推しの子」の推しを恋人と読み替えたらどうなるか。恋人の子に生まれ変わる?もっとストレートな意味がある。愛する人の子、愛する人との間に望む子、愛する人の子供を自分が欲する普遍的な感情だ。望んだ人との間に授かる子供だ。
 それでは、「推し」が推しであり、恋人であり、父親が明かせず、それでもなお生まれた子だとしたらどうだろう。そしてその子がまた同じように恋をして同じように子を産んだのならどうだろう。そこに脈々と継がれる「推しの子」の系譜とその因果を想像できるはずだ。

 配役があるなら役者がいる。役者がいるなら、その場所は舞台である。その舞台には、脚本という何かしらの意図が通っている。そしてこの舞台の主役こそが【推しの子】である。
 【推しの子】は役名であり、舞台そのものの名でもある。役名であることが舞台の存在を指し示しているからだ。そして【推しの子】は繰り返し開演される舞台でもある。代々の推しの子たちが生まれ落ちるたびに、脈々と受け継がれる因果に彩られ絡めとられながら、彼らを主役とした舞台が幕を開ける。この物語の主題がアイドルにもかかわらず、主眼に役者が据えられ続けた所以だ。まさしく「この世は舞台、人はみな役者だ」である。

 絡新婦の理の理で例えるなら、推しの子こそが蜘蛛であり、【推しの子】はそのまま絡新婦の理を表す、というわけだ。犯人を=蜘蛛を探したいのなら、推しの子が誰なのかを考えればよい。

 推しの子が代々継がれる存在だと仮定すれば、この系譜こそが作中でたびたび言及される神の血筋ではないかと考えられる。また絡新婦の理との比較を考えれば、この血筋が父系か母系かも重要な点だ。
 ここで前項(【推しの子】考察 カミキヒカルの一人二役)から家系図を引いてくる。
 
 着目するのは天童寺まりなだ。彼女は再婚した後も名字は天童寺のままだ。仕事上旧姓のまま通しているとも考えられるが、彼女の家が旧家なことを考えると絡新婦の理との重ね合わせもあり、婿を取っている可能性が高い。そう考えると、天童寺家が母系の血筋なのだろう。そして天童寺まりなに迎え入れられた男の血こそが、芸能の才に秀で星の瞳を引く血筋なのではないか。神の血筋は男系だ。
 そうすれば自ずと「推しの子」の系譜は浮かび上がる。斉藤壱護、カミキヒカル、星野アクアだ。アイとルビーもカウントできるだろう。

 壱護がアイの【推しの子】を欲したから壱護はアイに堕胎させなかったし、アイがカミキの【推しの子】を欲したからアイはカミキを突き放した。きれいな好対照になる。
 アイとカミキはさらに好対照だ。推しに対して、アイは【推しの子】を産むし、カミキは推しを殺す。ここにカミキが作劇上サイコキラーでなかればならなかった理由を垣間見られる。ミステリの犯人役としてはもちろん、アイの生に対してカミキの死、アイの愛に対するカミキの憎と、美しい対比構造を形成する重要な要素なのだ。アクアの復讐とルビーのアイドルの夢の好対照はこれによく似ている。

【推しの子】としてのそれぞれの物語は、アイの演目はアイドルと恋と出産、壱護の演目はアイのプロデュースと死、カミキの演目はアイとの恋愛と死だ。それぞれの演目で互いに役者として登壇し、三者の物語が混ざりあって、アイの死により結末を迎える、というのがこの代の出色な部分だろう。

 それぞれの来歴を持つのだから、結末の意味も視点によって様々に異なってくる。その精算しきれない因果が、また次代の【推しの子】の舞台を否応なく突き動かしていく。

神性

 一応になるが、神性についても考察してしまおう。本編で上がった神の名前は天照大御神とアメノウズメだ。この二柱は天岩戸で有名だが、場所が宮崎となるともう一つ挙げられる神話がある。
 天孫降臨だ。天照大御神の孫である瓊瓊杵尊が葦原の中津国を治めるため、高天ヶ原から高千穂峰へ天降る神話だ。
 天孫降臨は持統天皇との関わりが指摘されている。持統天皇は夫の天武天皇が亡くなった後、皇子の草壁皇子がほどなく亡くなったため、自らが天皇に即位した女性天皇だ。その後草壁皇子の子の文武天皇、つまり己の孫へ譲位している。祖母から孫への継承は「アマテラス→ニニギ」へと同じパターンを読み取れる。
 日本書紀は天武天皇の時代に編纂の指令が出ている。また天武天皇といえば、天智天皇の後継をめぐる壬申の乱も思い当たる。このあたりの継承には揺らぎが大きい。だからこそ正統性の主張となる記紀の編纂に持統天皇の影響力を軽視できない。天照大御神を祀る伊勢神宮の式年遷宮も持統天皇の代に一回目が行われている。
 天童寺家を女系の旧家と仮定すると、アマテラスのイメージとそう遠くないのではないか。また天童寺さりなの生まれ変わりであるルビーがアマテラスを自称したと考えると少し得心がいく。

 肝心の、星の瞳の神の血筋はいったい誰かという話になるが、こちらは猿田彦であると考える。瓊瓊杵尊が天降りしようとした時、天の八衢に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。それが瓊瓊杵尊の先導をしようと迎えに来た猿田毘古神だった。またアメノウズメはこのとき猿田彦に名前を尋ねたことで猿田彦の妻になっている。
 日本書紀によると、その姿は「鼻の長さは七咫(ななあた)、背の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いている」とされる。また異説程度ではあるが、「天地を照らす神」ということから、天照大神以前に伊勢で信仰されていた太陽神だったとする説もある。特徴的な目をした照り輝く神であるあたり、共通項と考えられるのではないか。

星の瞳の白黒、アクアの一人称

 星の瞳についても考えていこう。白星と黒星が現れるが、それぞれどんな意味を持っているのか。
 意味はわからずとも受ける印象でそう間違いはないだろう。希望と絶望、ポジティブな感情とネガティブな感情。しかしこれではアイの瞳を説明しきれない。
 私は、白と黒はそれぞれ愛憎なのではないかと思う。表裏となる言葉として愛憎はまさしくふさわしい。愛を持つとき瞳は白い星に輝くし、憎しみに突き動かされるとき瞳の星は黒くなる。復讐に突き進むアクアといい、MVのときのルビーといい、大外れではないと思う。
 そしてアイの場合は、「嘘は愛」だ。愛によって嘘をついているときは白い星で、嘘を剥がして本当を見せるとき、隠していた感情の全てが黒い星に表れる。

 アクアの一人称には俺と僕があり、何らかの使い分けがされている。アクアの二重性といえばアクア自身とゴローとしての記憶だが、ゴローを「僕」と仮定しても合致しない部分が多いらしい。私はルビーの例からヒントが得られると考えている。
 「私はいつだって演じている。「星野ルビー」という役を。「星野アイの娘という役」を与えられて、その役に相応しいように、「母の死を乗り越え」「明るく天真爛漫なアイドル」を」
 このあとにさりな役としての自分についても述懐している。

 彼女にとってルビーもさりなも役なのだ。ならば、アクアにとっても「アクア」は星野アイの息子という役を演じているととるのが自然だ。
 「僕」と「星野アクア」との境界、ここはミスリードを滲ませていると思われる。インタビューに答えるアクアが「僕」を使って演じることを語っているならば、「僕」が素の自分、「星野アクア」として演じているときは「俺」という使い分けなのだと推察する。

アクアのナイフ

 さて、当代の【推しの子】はアクアとルビーだ。アクアは復讐譚として、ルビーはスターダムへの栄光譚として、それぞれの舞台を展開している。彼らの至る結末について、推測できるピースはいくつか既に揃っている。

 結論から言うと、私はアクアが有馬かなを刺すと思っている。そうなるようなピースが揃いすぎている。今日あまでの共演でアクアはストーカー役、有馬かなはヒロイン役。アクアは有馬かながアイと同じ目にあうことを本気で恐れていた。壱護に壊れかけているのはアクアの方と指摘されており、アクアのトラウマは未治療のまま、本人が中断させてしまっている。アニメ一期ではOPもEDもアクアの衣装はリョースケと共通する黒パーカーだった。極めつけが終章開始直前の150話のサブタイトルがナイフ。有馬かなが「天才だってナイフで刺されればお陀仏」と発言していたのはあまりに暗示的だ。

 もともと、クライマックスに差し掛かる頃にアクアが何か事を起こすことを企んでいるのは作中にも表れていた。11巻、アイの真相を公表した後の「俺はもう、自分が幸せになろうなんて甘い考えは持っていない」「利用できるものは全部利用する。それがたとえ有馬だろうと」、そしてルビーにゴローであることを明かしてからのツクヨミの「でもそれは悪手だよ」がある。ツクヨミは他にも暗示的な言葉を残している。

 推測できることは、「人を傷つけ、傷つくことに」、アクア自身も周りも少なからずダメージを負うこと、そのことがアクアを思うルビーをより悲しませること、そして有馬かなに好意を寄せられていた方が都合がいいこと。これらから、アクアが何か直接的な手を下して再起不能レベルのダメージを負うだろうこと、周りを悲しませること、また親しい人の信頼を裏切る形で行われるだろうことが窺える。ここに前述のピースたちを合わせれば、もう有馬かなを刺すことは決まったようなものだ。

 なぜ刺すのか。動機、ホワイダニットを考えるならば、「他の誰かがやるくらいならいっそ自分が」が考えられるだろう。アクアは有馬かなが自分の影でファンに刺されることを何より恐れていた。誰かが刺す前に自分が刺す、いわば狂言を意識しているものと考えられる。15年の嘘と構図を重ね合わせてこれを行えば、自分の名声は地に落ちる代わりに、彼女らには被害者として相乗効果で注目が集まるし名が売れる。アクアにとっての【推しの子】の舞台は、15年の嘘とその再演だ。

 復讐の枠組みに蛇足のような狂言まで入ることは考えている間から謎だったが、もしかしたら事件に注目させ風化させないことまでがアクアの復讐になっているかもしれなかった。アイの死は三日で忘れられた。アクアは15年の嘘と重ね合わせることで、アイの死を深く社会に刻み込むことも目的の一つなのかもしれない。

 一巻各話冒頭のマネージャー編のインタビューで、なにやらトラブルがあってミヤコさんが呼び出されているのがわかる。画面端に汚れた衣類などが見え、当初は映画撮影中のトラブルなのかと思っていたが、そのような描写は登場しないまま撮影編は終了してしまった。ここから、このシーンの登場は154話現在より未来なのではないか、そしてこのシーンこそアクアが有馬かなに事を起こした(もしくは予行演習か)のではないかと考えている。

 狂言ではないかと予想はしているが、その場で何が起きるかは想像できない。むしろ暗示通りに進行するかもしれない。しかしルビーと有馬かなはアイとニノの再演にはならなかった。双子だけが掴める彼らだけの結末に至れると信じている。

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