青少年健全育成を言い訳に使うのはやめよう
気味が悪い言葉「青少年健全育成」
最近、何かしらの性的な表現なり、過激な表現があると、すぐ「青少年の健全な育成に悪い」という人があらわれます。
私、個人的な意見では、青少年の健全な育成という表現が架空の青少年を矢面にたたせて、自分の不快な感情を相手に押し付ける壁に使っているようで、非常に気味が悪い思っております。
ということで、ここでは「青少年の健全な育成」ってなんぞやということを考えていきたいと思います。
何からの「健全」なのか
健全という言葉ですが、非常にめんどくさい言葉ですね。不健全が良いと言える人はなかなかいないので、これが「健全」と言われると手も足もでないような気がしてしまいます。
では、青少年の健全という言葉は、何から守れば健全なのでしょうか?
例えばですが、小学生をインターネットの世界で育てたとしましょう。
飛び交うスパム広告、キッズ帰れと煽られる、性行為の動画がみれるといった、様々なことが起こるでしょう。
これはまずそうだなと多くの人は思うわけです。
つまり、健全という言葉を使う人は暗にこの社会は不健全だと言ってるわけです。
このような、「子ども」を保護しようという考えは、近代以降にうまれました。
アリエスという、歴史学者によると、愛され保護される子どもという「まなざし」は近代以降にみられ、それ以前の社会では、子どもは小さな大人と見られ、今のような特別な存在として大人と分離していなかったと言っています。
フィリップ・アリエス著『〈子供〉の誕生 アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』 杉山光信、杉山恵美子訳 みすず書房
ここに「健全」という言葉が何からの健全なのかのヒントがあります。
近代以降、親や地域社会以外で「子ども」を育てるようになったのは、学校でした。
この学校は、農村の風習といった地域に土着の育て方から切り離して「健全」に育てるという、意味も持っていました。
学校が果たした機能はいくつかあるのですが、ここでは割愛しまして、ざっくりいうと職業が固定された農民からいろいろな職業につける国民になるような装置を学校が果たしたわけです。
なので、地域社会の土着の手法で育てられては困るわけで、いくつかのことから子どもを隔離することにしました。
それは
「性的なこと」
「暴力」
「労働」
他にもあるのかもしれませんが、この3つはよく言われることです。
大正時代には、学校という文化が日本でもかなり根付いていたのですが、その頃にはいわゆる昔話の大きな改変が行われたりしました。
有名な話ですが、「桃太郎」という話は、元々は下ネタで村の娯楽の一つだったそうです。
この話は歳を取ったおじいさん、おばあさんが若返りの意味を持つ桃を食べたらハッスルして、子どもが生まれたといった話が原典であるようです。
しかし、このような話は「健全な育成」によくないということになり、大きく改変されました。
地域の風習にあった、性的なもの、暴力的なもの、そして地域の労働から子どもを引き離していった、その時に使われた言葉が「健全」です。
現在の健全
「健全」を追ってみると、確かに今、健全だなと感じるのは、上記のようなことが、排除されたことだと思うでしょう。
この「健全」な空間を生み出すためには、子どもを大きく隔離しないといけないわけですね。
なぜなら社会は基本的に不健全だからです。
それは農村の土着の風習も現代のインターネットやらのメディアも同じです。
むしろ、社会が「健全」であってはいけないでしょう。性的なことがなければ、子どもはうまれませんし、暴力にルールをつけてスポーツへと昇華したボクシングやレスリングなど、個性の発揮の場であり、人々の娯楽として必要不可欠なものであります。(もちろんこうした、性や暴力が上手に運用されるには、学校などで教えられる、人権の考え方が必要不可欠であることは言うまでもないでしょう)
学校の隔離した健全というのは、それなりにうまくいってました。
まだ農村の学校という意味合いが強かった戦前の学校では、地域の風習や地域の人が、学校で習う以外のことも教えていました。
現代、インターネットが流行した今では、おそらくインターネットがその役割を担っているでしょう。
大きく変わったのは、地域社会が衰退し、家庭教育が強くなっていったことでしょう。
学校教育はたいしてかわりませんが、家庭教育に健全な教育が入ってきたというのが、現在の教育ではないでしょうか。
青少年の健全は誰のために?
もちろん子どものために、青少年の健全を言ってるのだというでしょう。しかし、本当に全部がそうでしょうか?
子どもを健全な場所に隔離したいというのが、学校の元々の狙いとしてあることはわかりました。そして、それは家庭教育にも広がってきました。特にテレビの規制にはPTAが一役買ってるのは皆様もご存知でしょう。
PTAのテレビの規制にもあるように、子どものよく目に止まる場所も健全にしようという動きがあることも、理解できるでしょう。(良いかどうかは知りませんが)
しかし、実際にはそうではない主張をされる方もいらっしゃいます。
例えばR-18指定の本がありますね。あれらの本は青少年が入れるスペースと区切ってありますね。
しかし、何を勘違いしたのか、そういうスペースがあること自体が問題だと言う人もいます。
深夜帯の番組がありますよね?なぜ深夜にやるのかというと、青少年がパッと見れないようにするためですよね?
にも関わらず、深夜番組帯に青少年の健全な育成にと言う人もいます。
「健全」な育成に社会は十分配慮していると思いませんか?
こと「健全」な育成をするのは学校と家庭と社会です。
社会は選択できる環境整備を行い、親(家庭教育)は家庭教育の自由の範囲で、「健全」な育成をするというのが、社会の教育と家庭教育の関係性です。
なので、健全な育成のために、社会が、ゲームのプレイ時間規制しようだとか、深夜番組を規制しようというのは、社会の環境整備という役割を大きく超えています。
ゲームのプレイ時間にしても、深夜番組の規制にしても、それをするのは親(家庭教育)の役割です。
家庭教育にはどれが正しいというのは基本的にないわけです(虐待はいけませんが)
ここまで見れば分かるように、子どものためを思った健全な育成のための規制というのは、親が子供に行うものか、公共の空間で目を覆える環境を社会が整備することです。
それ以外で言っている人たちは、子どものためという言葉を利用していますが、別の理由があるのでしょう。
例えば、自分が嫌いなものを社会から排除したいという論理に、子どものためと入れるのです。それは子どものためではなく、自分のためですね。
自分の感情を子どものためとすり替える大人たち
あまりにも健全すぎる社会は住みにくいでしょうし、それを理想としてしまうのはどうかと思いますが、ある程度子どもを「健全」なところで守って育てたいという気持ちは理解できます。
しかし、多くの人はあまり意図せずに、子どものためという言葉を巧みに利用して、自分の目的のために利用しています。
その一つが「青少年の健全な育成」という言葉なのでしょう。
もし本当に「子どものため」と思うのであれば、まずは自分の感情を整理し、冷静になった上で、勉強することが大切なのではないかと思います。
これからは「健全」という言葉が出てきたら注意したいですね。