「どうして勉強しないといけないの?」という疑問に答えられますか?

「どうして勉強しないといけないの?」と多くの子どもはいいます。
大人になると、少なくとも学校の勉強からは解放され、大して日々勉強もしてないのに、この質問には、とりあえず「将来のため」などといって本当にあるのかどうかもわからない、将来を子どもに押し付けて難を逃れます。

しかし、それでいいのでしょうか?
ある人は堂々と意味がなかったというかもしれませんし、とりあえず「将来のため」と逃げの一手を使います。
これでは、あまりにも貧相な回答です。

今回は、結果はどうあれ、「どうして勉強をするのか」について考えましょう

勉強ってなに

勉強という言葉は、いくつか意味がありますが、この場合「学業や技能を習得しようと努力することでしょう」
同じような意味の言葉に「学習」という言葉があります。
学習するということは、技能を獲得するということです。

少し話は変わりますが、私たちが生まれたときからできることはそこまで多くありません。
例えば、箸を使ってご飯を食べる、自転車に乗る、スマホを弄る、これらすべてのことは生まれてから後天的にできるようになったものです。
もちろん誰かに教えてもらったものもあると思いますし、自分で見よう見まねをしたり、自分で調べてできるようになったものもあるかもしれません。
これらすべてが「学習」になります。

こうした、後天的に獲得するものを総じて「文化」と言います
なので学習とは「文化」を獲得するということになります。
なので、私たちは小さい時から今この瞬間まで、「学習」をしていない人はいません。
今やっているゲームの攻略を調べるのも、料理の作り方を調べるのも、テレビで見たものを見よう見まねするのも、買い物でパッケージをみて、こんな効果があるのかと理解するのも全て学習だと言えます。

私たちは絶対に何かを学びながら生きています。しかし、勉強といった場合どうでしょうか。
この場合の「勉強」の意味は「学校の勉強」という意味でしょう。
学校で習うことは学習の中でもごく一部分です。しかし、ここで習うことになぜか大きくスポットライトが浴びているため、「なんで勉強ってしないといけないの?」と言われるのでしょう。

学校の勉強はいつからはじまったの

私たちは日々学習をしていますが、学校の勉強とはなにを習っているのでしょうか。

このためには学校の成り立ちを抑えないといけません。
学校というのは近代という時代に、全国民が受ける義務教育という形になりました。
それまでは、全員が行かないといけない学校というのはありませんでした。
なぜ、全員が行かないといけなかったか、いくつか理由がありますが、1つは、国民国家を作るためです。
当時の人々は、歴史を読むとわかりますが、その土地の領主様の名前ぐらいは知っているものの、どこかの国に所属しているという意識はほとんどありませんでした。
文字を読む必要もなく、日々田畑を耕し、歩き方も農業に適した独特の歩き方をしていました。
私たちが今当たり前に暮らしている、近代国家というのは、1人1人が文字を読めて、自分自身で考えることができ、政治に参加することができます(民主主義)
さらには、親の職業に関わらず様々な職業に就こうと思えば就くことができます。(職業選択の自由)

このように1人1人が文字が読めて、政治という仕組みを勉強できて、親と違う職業につけるようにした仕組みが、「学校」です。
学校を作ったのは、強い国を作るためですが、その恩恵で強い国とは豊かな国も兼ねていたので、多くの人たちは自分たちの暮らしが豊かになることを実感できました。(富国強兵)そのため、当時労働力として使っていた、子どもを学校に行かせるようになりました。

当時はなんで「学校にいって勉強しないといけないの?」は親の疑問でした。
なぜなら、親たちは学校に行っていませんでしたし、学校に行くと豊かになるというのがわかるのは、少ししてからです。

現代に戻りますが、現代では、学校に行かないからといって、死ぬことはありません。社会が豊かになり、学校でなくてもどこでも勉強はできるようになりました。
学校に行ってないからといって、文字も読めない足し算もできないという子どもはほとんどいませんし、子どもも流石に知らないと生きていきにくいとわかるのか、そこに疑問を持つことはほとんどありません。

ではどこに疑問を持つのでしょうか?

こんな勉強必要なの?

私たちは義務教育で色々と習いますが、数学で因数分解というのを習います。残念ながら私は数学にそこまで詳しくないので、日常の生活に因数分解を使うような経験はありません。
おそらく、勉強している子どもたちも親の背中を見ながら、これなにに使うの?と疑問を持つことはよくわかります。

かつてのように、学校に行けば(習ってる内容の是非を問わず)豊かになれるというのであれば、内容に疑問は持ちません。特に高度経済成長期は受験競争も激しく、豊かになるというプロセスも見やすいものでした。
しかし、今は頑張って勉強して、良い大学にいって、大企業で働いて裕福になるという将来プランは見通しにくくなっています。
要するに、学校の求心力が低下しているということですね。

そうなると、学校で習ってる内容は何のために?となるのは、ある意味当然の結果です。
では実際中身に意味があるのでしょうか?

学問知と日常知

私たちが普段、日常生活で例えば自転車の乗り方や、包丁の使い方、料理のレシピなどを学ぶような知識を日常知と呼びます。
これらの知識は、間違っているというわけではありませんが、学問のように体系化されているわけでもなく、根拠に乏しい知識が多くあります。中にはフェイクな知識もあるかもしれません。
逆に学校で習うような、学問をベースにした知識を学問知と言います。
学問知は、学問が覆されない限り、それなりに安定した知識となります。
ただし、学問知は非常に遅いという傾向があります。例えば新型コロナウイルスが流行っていますが、新型コロナウイルスの研究により新たな知見が出されるのは半年ほどズレる可能性が高いです。

そんな遅い学問知ですが、私たちが様々な困難にぶつかったときに考える基盤を与えてくれるのは、学問知になります。
安定した知識というのは非常に貴重です。特に今の時代は、情報に溢れていますので、基盤となる知識がなければ、あっという間に情報の渦に飲み込まれてしまいます。

なので学校の勉強(学問知)が役に立つかと言われれば、すべてを使うとは言えないが、「困っときに考える選択肢を増やしてくれる」という意味で役に立つと言えるでしょう。

もちろん、全て運で人生を決めるんだと考えるのであれば、そんなに知識はいらないかもしれません。文字がかけて、最低限の計算ができれば暮らしていくことはできるでしょう。

民主主義を成立させるための教育

少し視点を変えて、本人にとってではなく社会にとって学校での知識が必要だという場合もあります。
例えば、選挙の仕組みや法律について知らなければ、本人ではなく民主主義という社会そのものが困ってしまいます。
そういう意味では、勉強をして自分で考えて選択できる人を社会が必要としているとも言えるでしょう。

まとめ

「どうして勉強をしないといけないの?」と言われたら、筆者なら「どうしてそう思うの?」と逆に聞き返すと思います。きっと子どもたちの疑問は、この記事にかかれたどこかの部分に疑問を思っているのではないかと思います。
その内容によっては、自分の考える選択肢を増やすためというアンサーや、社会が必要としているというアンサーなど、本人が疑問に思っている部分に合わせて、色々な返答がありうるのではないでしょうか?




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