いじめという問題
「いじめ」という言葉があります。
おそらく、これを読んだ人はいじめというものわ、見たり聞いたり、中には体験した人もいるかもしれません。
いじめという言葉を聞いて気分が悪くなる人は、この記事を読まないのが得策でしょう。
さて、いきなりですが、「いじめ」とはなんでしょうか?
例えば、長年連れ添ったコンビ芸人が、相方のことをボコボコに罵っています。そういう芸です。
これは「いじめ」でしょうか?
多くの人は「いじめ」ではないと答えるのではないでしょうか
しかし、学校で同じことをして、言われた人が嫌がっていたらどうでしょうか?
多くの人は「いじめ」だと言いそうですね
どうやら、「いじめ」だと認定しそれを問題とする条件があるようです。
いじめの定義
文科省による定義を見てみましょう。平成25年度からの定義です。
「いじめとは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」
このように非常にながったらしいものが定義となります。
わかりにくいですが、いじめられた被害者が、嫌がっていて、一定の人間関係にあたる加害者が、何かをしてたらいじめだということです。
しかも子どもにしか適用されないようです。
なぜこれは、いじめであって、例えば悪口であったら侮辱罪、暴力であったら暴行罪と呼ばないのでしょうか?
本人が嫌がっていたら「いじめ」になり、嫌がってなければ「いじり」になるのでしょうか?
少し視点を変えていじめの統計を見てみましょう。
いじめの認知件数
出典 知念渉(2017)「【いじめ】問題がつくる視覚と死角」片山悠樹編『半径5メートルからの教育社会学』大月書店
この図は点線が「いじめ」を含む新聞記事数、実線が文科省のとる、いじめの認知件数です。
話題性のある「いじめ自殺」があるたびに、記事数が増え、それに呼応するように認知件数も増えていることがわかると思います。
要するに、話題性があると、いじめの認知件数も増え、慣れてくると減るということです。
なんとも悲しいことです。
しかし、このいじりではなく、いじめの認知という考えが大切なのかもしれません。
いじめの構造を見てみましょう。
いじめの四層構造
出典 森田洋司(2010)『いじめとは何かー教室の問題、社会の問題』
非常に有名ないじめの四層構造モデルです。
簡単に言うと、被害者と加害者だけではなく、教室の他のメンバーがいるというモデルになります。
「観衆」=直接手を出すわけではないが、火に油を注ぐ役割
「傍観者」=いじめが起きてても知らないフリをしている(暗黙の支持)
「仲裁者」=いじめを止めようとする働き
このようなモデルとなっています。
実際には傍観者も
「あいつらまた馬鹿やってんな」
「あいつクラスのいじられ役だからな」
といった、いじめと認識せず、「いじり」として認識している可能性も多分にあります。
つまり、この構図はいじめについて考えるモデルとしてよく使われますが、教室内がみんないじめを把握している前提です。
しかし、実際には「いじり」としてみているのかもしれません。
そうであれば、「いじめ」というのはほぼ見つかりようがありません。
いじめって結局なんなの
ここまでウロウロと見てきたが、いじめというのは結局のところ人間関係の一つに名前をつけたと言わざるおえません。
(なぜ犯罪として訴えないのかは不思議ですね)
大人になるとこれの名前がパワハラやら、セクハラなどに変わっていくものとなんら変わらないでしょう。
要するに、「いじめ」というのは、教室に持ち込まれた、差別に他ならないのではないでしょうか。
例えばスクールカーストと呼ばれる教室内の文化的な格差や、貧困、身体的な特徴の差かもしれない、もっと細かな差別かもしれない。
もちろん差があることはなにも悪いことではないですし、上手にそれを活用できれば何も問題ありません。
「いじり」か「いじめ」かは被害者本人しかわからないのであれば、見つけるのは非常に困難でしょう。
単に「いじめはいけない」と抑圧しても大きな意味を持たないでしょうし、「いじめはなくならない」からほっておいてもこれもまた何も変化しません。
そうであるならば、本人が嫌だなと思った時に上手く逃げ道が用意できるようにしておくか、日頃から教室内にある差について、認めることを促すしかないのかもしれません。
いじめというのは、かなり根が深い話なのでしょう。考えるときは要注意かもしれません。
参考文献
北澤毅(2015)『「いじめ自殺」の社会学ー「いじめ問題」を脱構築する』世界思想社