フェミニズムはアンブレラタームとともにどこに向かうべきなのか?
1.女性差別とフェミニズム
フェミニズムは男女同権を求める運動であるとはよく聞く話で、それには私も一部同意しています。
その理由が「女性の権利向上させるためには、既存の他の属性の状況も改善しなくてはいけない」という、目的を達成するために仕組みを変えないといけないという独善的な意識に基づくものではありますが。
日本でも働く女性を取り巻く環境を向上させるには、働く男性の取り巻く環境を向上させる必要があることは、男性の育児休暇の利用などからも理解を示す人は多いと思います。
女性やシングルマザーの権利と聞く人で猛反発する人も、事故や病気、不幸な事故等でシングルファザーになった人がどのように子育てをしながら生活するかについては多少は慮るところがあると信じたいところです。
けして解決方法がたった一つの「新しく母親になってくれる存在を見つけ出す」ことではないでしょう。
現社会環境としては最も現実的な問題解決方法になってしまうところがあることについては悲しいことに納得してしまう面もありますが、これは余談です。
話を本筋に戻しましょう。
最近亡くなられた女性弁護士ルース・ベイダー・ギンズバーグ氏が、アメリカの司法において、直接女性の権利を向上させるように思えないところを突破口にした性差別を切り崩した話を紹介したいと思います。
ルース・ベイダー・ギンズバーグ氏は「介護は女性のやるものである」という女性差別は「働きながら母親を介護している未婚男性の母親の介護費用控除の申請が独身であるというだけで許されない」ということにもつながるということを社会に示しました。
このことから「女性差別を行うことは男性も差別される環境が構築される」ということに理解を示すことができます。俗にいう差別コストというものです。
回りくどくなるところもありますが、直接関係のないように思える権利の為に戦うということも、女性差別の環境を改善することにつながる面があるということは理解しているつもりです。
2.ジェンターとフェミニズム
twitterを利用しているジェンダーやセクシャルマイノリティの権利に関心のある人であれば、一度は見たことがあると思うハッシュタグを紹介させていただきます。
#トランス女性は女性です #ともにあるためのフェミニズム
トランス女性は女性です。それではトランス女性はなにを意味するのでしょうか。
最初から結論を出してしまうのですが、悲しいことにトランス女性がなにを意味するのかは誰にもわかりません。これは権利活動におけるプライド(誇り、自尊心)がなにかを言語化するのが難しいのと一緒です。
私が有する前提条件を忘れて、文字通りに解読したら「身体とは無関係に女性としてのアイデンティティを有する人」になると思います。
それでは性自認が女性、ジェンダーアイデンティティが女性、心は女性であると感じるというものがなにを意味するのかわかるでしょうか。
現在のジェンダーアイデンティティ重視は、自らが自身をどのように感じるのか、その結果どこで過ごすべきかを判断するものであり、「他人に決めつけることはできない」ものです。
その為、ラディカルな権利活動を進めていた人の思想は「女性であるということと性同一性や身体違和、性別違和は無関係」になります。これは極論や曲解ではなく事実です。
現行の特例法を廃止し新しく自己申告することを提言した人たちの中に、もっと言えば提言をまとめることに関与した人がラディカルな思想を表に出していたのです。
この思想が含まれている、そして段階的に次を求める時もこの路線で進もうとしていると個人的には判断しています。
どのような身体を持っていても無関係で、アイデンティティの内容の質も誰も図ることはできません。そもそも他人の性やアイデンティティに関して勝手な尺度で判断すること自体ためらわれることでしょう。
最近炎上したKKOに属するにわとりのアイコンの「弱い男はつらいけど、女になったらチヤホヤされる」というものですら適合されます。
これには反TERFと主張していた当事者やアライですら批判する人がいましたが、現在主流のアイデンティティにはどのように感じるかが重要なので、それを重視するのであれば批判は成り立ちません。
他人のアイデンティティに「あれはダメでしょ」とは言えなくなるのです。
これは重箱の隅をつついたりしているのではなく、そもそもアイデンティティに本物も偽物も存在しないので、誰にも勝手に判断できないというものが現在の人権目線です。
病理であった時の除外要因となる「自分の属性のジェンダーロールそのものが嫌なだけ」も広義のトランスの定義に含まれるのです。
現在の権利活動において、トランスセクシャルとトランスジェンダーの違いはほぼないものであると考えられています。
身体で分ける必要、意味はないという考えにおいてはそれは正しい面もあるのですが、トランスジェンダーはアンブレラタームであるということが話を大きくこじらせる要因となってしまいます。
性はグラデーションでアイデンティティは一定のものではなく、どのような場合においても他人の誰にもそれを判断したり評価することができないという状態がなにを意味するのかを想像してください。
男性と女装した男性と男装した女性と女性の違いはなんでしょうか?
異なる装飾を身にまとっていると認識されるのは、ルッキズムによって性他認が成り立っていないだけでしょうか。
身体や性表現は目に見えるものです。しかし、アイデンティティはそれ単体では誰にも見分けがつかないことは考えるまでもないことです。
基準や規範が存在せず、その人がどのような発想、どのような認識、どのような意識で感じたものであれそれが正しいものになるということがなにを意味するかわかるでしょうか。
それは男女平等、ジェンダー平等、ジェンダー主流ということを意味するものではないと感じています。
すべての人が同じところで生きていく為に必要なことは「アイデンティティの尊重」でしょうか。もちろんそれができるのが最も人道的かもしれません。
しかし、アイデンティティは不透明です。認識できません。虚偽なのかジェンダーの揺らぎかは本人にしかわからず、もしかしたら本人にすらわからないケースもあるかもしれません。
少なくとも身体違和において女性でありたい、女性になりたい存在を受け入れることは比較的容易です。手術を終えていたら戸籍も変更することができます。
不確定な存在を不確定な存在のまま受け入れる、わからないものをわからないまま受け入れる、ということがなにを意味するのかわかるでしょうか。
性善説の世界においては成り立つでしょう。誰もわざと偽ることはなく、誰もわざと欺くこともなく、誰も目に見えないものを悪用しないのですから。
アイデンティティの世界においてなにも区別することはできませんし、しようとしたら差別になってしまいます。
3.人間、人類であることとフェミニズム
人間である定義をだすのが難しいように、女性である定義をだすのは難しいでしょう。属性が同じでも身体は画一的ではなく、絶対に該当しない条件がでてしまいます。
腕や足がなくなろうと人間ですし、生理がくる前の女児やストレスや加齢でこなくなった場合であっても女性です。
男性であるということや女性であるということを決めるの決定的なものはなにがあるでしょうか。それを決めることはなにを意味するでしょうか。
真剣に考えれば考えるほど、おそらく行き着く先は、ゲシュタルト崩壊であり「そんなものはない」となるでしょう。
生まれつき指が6本であろうとその人が人間であるのは当然です。身体が標準と違っていたとしても生まれ持った身体の違いが人間であることを決めたり決めなかったりはしません。
しかし、身体が性別を構成する要素として確定するものでない場合はどうでしょうか。当然生殖器の違いに意味はなくなります。
再度確認したいと思います。#トランス女性は女性です のトランス女性と女性は一体なにを意味すると思いますか。
トランスとシスとはなんでしょうか。性の境界を越えるという定型的な説明もありますが、トランスはシスであるというものもラディカルな思想に含まれます。
基準が身体ではなくアイデンティティによって決まるものは、どのような条件でも「生得的」になりうるとともに、実際そのように捉えている人道的な人も増えてきました。
4.社会とフェミニズム
これを危ぶむ理由に、以前の性の解放の実情があります。
理論上女性だけを縛るような性の規範は女性蔑視や女性差別によって形成されている部分も多く、解放することも女性の権利の第一歩であったことは確かです。
しかし、女性と性の関係に関してスティグマのある環境が保全されたまま、避妊方法が限られ主体性を確保しにくい環境の中、性の解放だけを進めた結果はどうなったでしょうか。
主体的であるということがどのようなものかをきちんと理解し、正確に把握できる人はいるのでしょうか。
社会が構築する環境は性二元論がベースにあり、誰もが大なり小なりミソジニーを内面化してしまう環境下で、脱性二元論のみを進めたらどうなるでしょうか。
身体は無関係で根拠はアイデンティティであるということが現実にどのような作用があるでしょうか。
これは全体化できませんが、当然女性装を行う人やその人達の支援を行う人の中には強いミソジニーを有する人がいます。
身体的女性は身体的男性よりも劣っていて、ホルモンバランスや体調の崩れやすさは社会に不適合で、女性の体であるというだけで障害の有する男性のようなものであるという認識をしている人をベースにしている人間が混ざっています。
それらのアイデンティティにおいて「身体的に劣っている女性の中に、どのような身体の女性がいても良い」と考えることがどれだけ脅威で、しかも女性に回避不可能な状況を作るか想像力を働かせることはできるでしょうか。
そのように考える個人が悪いというものは事実です。悪いことを考え、実行するような人が悪いのです。ではシステムはどうでしょうか。
現在のアイデンティティが人権目線で尊重されていると考えられない環境ですら、女性専用スペースと考えられている場所で男性による女性への暴行はおきています。
アイデンティティは自我があるのであれば誰にでもあります。誰もが扱えるシステムとなった時、女性の安全性はどうでしょうか。
人権目線であるがゆえに、どのような条件や状態でも同等の権利を有すると考える為、オールジェンダーや多目的やバリアフリーの増設は生活しやすくなるだろうが「女性用スペースにアクセスできない」という不満が残ってしまいます。
5.トランスジェンダーとシスジェンダーとフェミニズム
シスとトランスの違いはなんでしょうか。グラデーションによって境界線が曖昧になった時にどこに被害が集中するでしょうか。
フェミニズムはトランスジェンダーの権利と女性の権利を同時に確保すると考えた時に、どのように動くべきでしょうか。
トランスジェンダーと女性の権利を分ける事自体が無意味であると考えるかもしれません。トランスジェンダーとトランスセクシャルの区別をするのが差別になるのであればそれも道理です。
残念ながらこれは極論ではありません。論理の飛躍でもありません。
そして私個人の意見になりますが、フェミニズムが女性の安全よりも人類全体の人権を優先した場合、それはフェミニズムではないと考えます。
権利が確保されていない時にでる「みんなの為」の中に、女性の尊重が入ることがないことは多くの人が認識できるはずです。
女性の権利よりも人類の人権を最優先した場合、フェミニズムはどこにも行けなくなります。