中国の話 6

1993年当時、成田↔︎北京行きの飛行ルートは現在と違いました。
成田から福岡上空まで行き、そこから上海に向かいます。上海上空に来ると、進路を北に。

何故こんな面倒くさいルートを、と思いました。
私の記憶によると、当時、朝鮮半島付近の上空は通過禁止だったようです。
留学中にそのルートは解放され、飛行時間はだいぶ短縮された様に思います。何分短縮されたかは覚えていません^^;(40〜50分かな?

私が留学で会った猛者は、神戸港から「鑑真号」と言う船に乗り、上海港へ、そこから鉄道で北京入りした人です。何人かいました。強者です!
何日かかるって言ってたかな…
飛行機なんて高くて生ぬるい(私が思ったことです)方法なんて使わない。
安いし、時間は惜しまない。(有的是时间)
すごい人が世の中に居るもんだな、と思いました。

北京国際空港上空から見る北京郊外は、
3月末と言うこともあり、茶色一色で、緑はほとんどありません。
何となく心許なく寂しく、殺風景でした。
この後何度もこの風景を見るたびに憂鬱になったものです。
でもこの時は、憧れの地についに着く!と言うことでワクワクしていました。

空港に着くと、裏寂れています。(今では新しく綺麗な空港に変わっています)
人も、自分たちが乗ってきた便以外の乗客は少なかったです。
日本の地方の空港の様でした。

預けていた荷物を取り、入国手続き前のX線検査へ…ベルトコンベアに乗せようとすると、係員が手を振って追い払うしぐさ。
え?検査しないんだ…ビックリしました。
日本の税関はあんなに厳しいのに…
そのまま、何事もなく入国審査も終わり、
空港内で両替しました。

当時は外国人専用通貨・兌換券(だかんけん)(中国語:外汇)があり、外国人は必ずこの兌換券と両替します。
いくらだったかな…1万円で600元は変えられた気がします。円高でその後700元くらいまで上がりました。(人民元に切り替わった影響含め)

ちなみに、ドルは95年で100ドル800元弱だった気が…(人民元)
  ※調べたら当時の為替は以下の通りでした。
   1993年1ドル110円前後、1元19円前後
   1994年1ドル102円前後、1元11円前後
   1995年1ドル94円前後、1元11円前後
   1996年1ドル108円前後、1元13円前後
   ちなみに、兌換券は1995年1月1日に廃止され、人民元に統一されました。
   VIVA!円高!とても良い時期に留学したと思います。
  ※2024年10月現在1ドル140円台(143円~149円の間)1元20円(限りなく21円に近い)

中国の一般市民が使うのは人民元。
ただし、友誼商店やホテルの高級商店では、兌換券しか使えない所があり、お金持ちの中国人は兌換券が欲しい人もいました。
そのため、銀行を通さず外貨を人民元に両替する闇両替も横行していました。(兌換券は記憶によると、人民元の1.4倍の価値があったと思います)

無事に両替も済ませ、空港からホテルに向かいます。
が、白タクは絶対利用してはいけないので、白タクの強引な客引きを振り切りながら、正規のタクシー乗り場へ。  

当時は高速道路が無く、本当にここは国際空港のへ向かう道なの?と思うくらい、のどかな、大きな並木が続く道です。
その道をタクシーに乗り、ゆらゆら揺られて行きました。(私はこの道が大好きだったので、高速道路が出来たのは残念でした。並木はポプラに似ていました)当時の写真が無いのが残念です。
私が北京を離れる頃は高速道路が整備され、語言学院から50分くらいに短縮されました。
93年当時は1時間20分くらい掛かったかな…?

タクシー運転手さんと何を話したか忘れましたが、どこから来たか、何しに来た、聞かれたと思います。
いつの間にこんなに喋れるようになったんだろう、簡単な会話は出来る様になっており、楽しかったです。

ホテルに着き、チェックイン。
ポーターさんがとても良い人で、やはり何しに来たか、と聞かれ、北京語言学院に留学に来た、と言うととても優しく接してくれたのです。
そのおかげで、中国人に対しての第一印象はとても良かったです。(今思うと当時では高めのホテルだったので、ポーターさんもきちんと教育された方だったのかもしれませんが)
後に他の留学生に聞くと、第一印象が悪かった人が大半だと知りました。

その夜、ホテル部屋から家に電話をしました。
母の声を聞いたら突然ホームシックにかかり、心細くなって泣いてしまいました。
母はその後とても心配したらしいです。

翌日、ホテルからタクシーに乗り、北京語言学院へ。
どうやって入学式手続き(报名)したのか、まったく覚えていません。
ただ、短期留学専用の宿舎、学10号楼へ向かって校内をスーツケースを引きながら彷徨った記憶が。
やっとの事で宿舎に着くと、ホテルの様な仕様。
チェックインカウンターの様なカウンター(服务台)があり、常に人(服务员)がいました。(門限まで)

ロビーにはテレビがあり、ソファもあり、各国の留学生が中国語で会話をしていました。
赤いベルベットのソファが置かれ、赤い絨毯が敷かれています。
(短期留学生専用宿舎なので、当時としては豪華な作りです。長期留学生用の宿舎はここと比べるとだいぶランクが下がります)

鍵をもらい、指定された部屋に行きます。
2人部屋で、ルームメイト(同屋)は韓国人でした。
韓国人の苗字は梁さん。彼女は全く中国語が喋れないので、意思疎通を測るのに苦労しました。
すると、彼女は友達の韓国人を連れて来てくれ、
さらにそのルームメイトの日本人を紹介してくれました。
そこから、韓国人の友人・知人が一気に増えて行き、オンニとオッパが何人も…
初日から賑やかに過ごす事が出来、ホームシックなんてどこへやら。
その日の夜、家に電話すると母は気が抜けたようでした。
その後、親不孝者の私は月に1回電話するかしないか、の頻度でしか家に連絡をしなくなり、後に弟にこっぴどく叱られることになります…

続く

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