教科書に《真理》は書いていない。
受験なり資格取得なりに際して、学習すべきことがすべて記されている(はずの)教科書。これらに一通り目を通したものの、その内容がどうしても理解できずに挫折した、という経験をしたことがない人はほとんどいないと思う。《わからない》の中身は様々であろうが、最も多いのは「教科書に書かれていることが真理なのかどうか《わからない》」という疑問に起因するものではないだろうか。じっさい、この疑問はとても正当な疑問である。なぜなら、あなたの直観が示すとおり、現存するどんな教科書にも、名著と呼ばれる精巧な教科書であろうと、わかりやすいと人気のやさしい教科書であろうと、これらに《真理》は書いていないからだ。
例えば、英語の授業では《不変の真理》という概念を学ぶ。「水は100℃で沸騰する」は英語では「Water boils at 100℃ 」と表現する。「沸騰する」という意味の「boil」の時制(動詞の形を変えて、出来事や行動が「いつ」起こるかを示すための文法)は「水は100℃で沸騰する」のが《不変の真理》であるから常に現在形の「boils」となる、というのである。
しかし、実際のところ水が沸騰する温度は気圧が変わることによって様々に変化するということが化学の実験で明らかになっている。
さらに、沸騰する温度がちょうど100℃というキリの良い数字なのは、℃(セルシウス度)という温度の単位を定義する際に「水が沸騰する温度を100℃とする」と決めた歴史に基づくものでしかない。
テストとか試験とか言われるものには必ず《正解》があるため、正解だというなら自分に理解できなくてもそれが真理なのだろうと思うかもしれないがそうではない。これらは実際には、事象を人間がどう捉えたかという経験則、事象を理解するために構築したモデル(考え方)、あるいはそのモデルを機能させるための決め事、それらの応用としての人工物の解説、のいずれかでしかなく、真理《そのもの》ではない。しかし、ある知識が厳密には真理でないということが後世の研究によって明らかになったとしても、それらが私たちの社会を成り立たせるのに有効な機器やシステムを生み出し用いられ続けているという事実がただちに変わってしまうわけではない。そのためになお、そのような《古典的な知識》を学ぶ必要性は残り続ける。わたしたちの生きる世界についての《ほんとうの》真理は今もなお探求の途中であり、かつて真理と考えられていたことは新たな発見により覆され続けているし、いま真理と考えられていることもやがて覆されていくだろう。
教科書に書いてあることは真理であり、自分に理解する能力がないから理解できないだけなのだと、頑なに信じているひとは少なくないはずだ。ややもすると教師でさえ、正解を真理とみなしている場合も多いだろうから、そのような教師から不当な強要を受けた場合、自分の正当な疑問が歪められることに反抗心さえ感じるだろうし、そのような経験が学習を嫌いになる原因になってしまうこともあるかもしれない。しかし、教科書に書いてあることを理解し活用するためには、真理を探求したい気持ちをいったん脇におかねばならない。その上で身につけたそれらの知識は、真理の探究のための《ツール》として将来おおいに役立つだろう。
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