見出し画像

「ボストン1947」-孫基禎の生涯に思いを巡らせる

孫基禎(ソン・ギジョン)といえば、1936年ベルリン五輪のマラソンで優勝した名ランナーとして知られる。日本が朝鮮を支配していた時代であり、孫は日本代表として五輪に出場し、今も金メダルは日本選手が獲得したものとして数えられている。第二次世界大戦後、植民地支配から解放された朝鮮で、孫はどうしていたのか。8月末に封切られた韓国映画「ボストン1947」がその姿を伝えている。


民族問題に発展した日章旗抹消事件

ベルリン五輪のレースを制した孫は、3位に入った南昇竜(ナム・スンニョン)とともに日章旗を胸につけた白いユニホーム姿で表彰台に立った。両手には優勝の記念に贈られた月桂樹を抱えていた。君が代が演奏され、メーン・ポールに揚がっていく日章旗を見ながら、孫はこう考えたという。

「これが果たして、私の優勝の代償なんだろうか。亡国民の悲惨な烙印を消しきれない焦燥感にかられて、自分がのろわしくてならなかった。私は、これまでたった一度だって日本のために走ったことはない。自分自身と祖国コリアのために走っただけなのだ」

(孫基禎著『ああ月桂冠に涙』より)

祖国朝鮮で問題が起きたのはそれから2週間以上が立った頃のことだ。

日本の新聞に掲載された表彰台の写真に手を加え、日章旗を消して新聞に掲載したのは、朝鮮の東亜日報であった。日本統治下にある朝鮮総督府は、東亜日報の記者らを拘束し、新聞も停刊処分とした。


東亜日報は表彰式でユニホームの日の丸を隠した孫の写真を掲載した。1936年8月25日付夕刊2面の紙面画像(「Wikimedia Commons」より)

孫はその事態をベルリンからの帰国船がシンガポールに立ち寄った時に知らされた。ある朝鮮人から手渡されたメモには「注意しろ! 日本人が監視しているぞ! 本国で事件が発生、君たちを監視するように、との電文が選手団に入っている」と記されていた。

朝鮮の民族独立運動に発展する恐れがあり、日本政府も神経をとがらせていた。孫は五輪の翌年、明治大に留学するが、結局、二度とレースに出ることはなかった。走ることによって、民族問題を巡るトラブルに巻き込まれる可能性があったからだ。

若手を発掘・育成した「朝鮮マラソン普及会」

戦争が終わり、祖国に戻った孫は「朝鮮マラソン普及会」を設立した。ベルリン五輪で一緒に走った南とともに、若い選手たちの発掘・育成に尽力した。映画「ボストン1947」はその物語である。

ボストンマラソンは、当時としては、五輪と並ぶ世界最高峰の舞台だった。朝鮮に駐留する米軍政庁を通じ、孫は招待状を受けるべく奔走する。寄付を集め、やっと渡米の段取りが整った。1947年4月、ベテランの南と若い徐潤福(ソ・ユンボク)という2人が選手として出場することになり、孫は監督として現地に赴いた。

「マラソン普及会の旗上げ後、合宿訓練に参加した若い選手のうちで、もっとも優れた選手が徐潤福君であった」と自伝で振り返ったように、孫が育て上げた逸材、それが徐だった。

孫の願いが結実した徐潤福の優勝

コースの27㌔地点で待ち構えた孫は、徐にこんな声を掛けた。「潤福、祖国のために頑張れ!」。後半、コースに犬が飛び出してきて転倒したりする中、徐は最後まで力を振り絞り、2時間25分39秒の当時の世界新記録で優勝する。南も34歳のベテランながら、12位に入る健闘を見せた。

孫はこの時の模様を感慨深く自伝に描いている。

「ボストンの空高く太極旗が翻った。表彰台の上に立った徐潤福君も、観客席にいた私も、突き上げてくる感激で涙が止まらなかった。太極旗を胸につけて、世界舞台初の勝利であった」

(『ああ月桂冠に涙』より)

徐の優勝が国際的にも高く評価され、戦後最初の五輪となる1948年ロンドン五輪に参加を認められる。徐は目立った成績を収められなかったが、孫の功績を後世に引き継いだ立役者といえるだろう。

日韓ワールドカップを見届けて

戦後は米国とソ連の介入によって朝鮮半島が南北に分断される。1948年には大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国がそれぞれ独立を宣言し、2年後には朝鮮戦争が勃発した。

北朝鮮生まれだった孫だが、大韓民国の建国後は韓国籍となって、スポーツ界の発展に尽力した。1988年ソウル五輪では最終聖火ランナーの一人として、トーチを持って開会式のスタジアムに現れたことでも注目を浴びた。ベルリン五輪の優勝から半世紀以上を経てのことだった。

孫の一生を振り返る時、忘れてはならないのが日本との関係だ。『評伝 孫基禎-スポーツは国境を超えて心をつなぐ』の著者、寺島善一・明治大名誉教授が映画のパンフレットにその一部について触れている。

ベルリン五輪で陸上日本チームの主将を務めた大島鎌吉(のちに1964年東京五輪日本選手団団長)とは戦後も交流を続け、大島が東京と大阪で開催した「スポーツと平和を考える会」にも出席した。中日新聞を通じ、日韓のプロ野球交流にも貢献し、宣銅烈(ソン・ドンヨル)、李鍾範(イ・ジョンフ)らの中日入団にも関わった。決して日本を憎んでいたのではなく、むしろ日韓の親交を大切にしていた。怒りを持っていたのは、戦前の植民地支配という不平等で差別的な扱いであったのではないか。

孫は、日韓共催で行われた2002年のサッカー・ワールドカップを見届け、90歳でこの世を去った。祖国への思いと国境を超えたスポーツの愛情。日韓の雪解けが進むきっかけとなったこのW杯を、孫はどう見ていたのだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?