見出し画像

世界最年長のサッカー記者、賀川浩さんが伝えたかったこと

世界最年長のサッカー記者、賀川浩さんが、老衰のため99歳で亡くなった。日本のサッカージャーナリズムにおける草分け的存在であり、長年における国内外での報道が評価され、2015年には国際サッカー連盟(FIFA)会長賞を受賞したこともある伝説の記者だ。サッカーの発展のために尽くした生涯は、スポーツ報道の価値を考えさせてくれる。


100歳の誕生日を目前に控えて

6日付のサンケイスポーツによると、賀川さんは12月29日に迎える100歳の誕生日を前に、関係者に公開するためのメッセージを残していたという。その一部を引用したい。

「100歳になっても200歳になっても、サッカーの勉強と集中を切らすことはできないと思います。僕はずっと100歳を僕は目指して勉強もし、(若い頃は)練習もし、サッカーに精進してきました。~中略~(日本のサッカーについて)よく(選手、指導者が)勉強して、ちょっとずつ(盛んな)地域を増やして(広げて)、よくなりだして、よくなりだしたからこそ、ここまできた。日本サッカーはますますよくなると思います。今までのように日本サッカーの中で、自分たち同士で仲良くして、サッカーのいいメンバー同士でサッカーを盛んにしていくことが大事だと思いますね」

1960年代に「兵庫サッカー友の会」を立ち上げ、サッカースクールの基礎を築いた賀川さん。29日には、その流れを汲む神戸フットボールクラブの関係者らによる誕生日会が予定されていたという。100歳になってもサッカーを勉強し続けるという姿勢には頭が下がる。

若い頃は天皇杯で準優勝も経験

1924年に神戸で生まれ、神戸一中時代にはFWとして全国大会での優勝も経験した。その後は第二次世界大戦の勃発。賀川さんは志願して特攻隊に入るが、出撃の数日前に終戦を迎えたという。戦後は神戸経済大(現・神戸大)で東西学生対抗王座決定戦準優勝、大阪サッカークラブでは天皇杯の準優勝も経験した。

1952年からは産経新聞の記者となり、その後は系列のサンケイスポーツで健筆を振るった。ワールドカップ取材は10回に及び、大阪本社での編集局長を経て定年退社後はフリーランスとして長く書き続けた。

日本サッカーの「これまで」と「これから」

この年齢ながら、フリーになってからはインターネットに数多くのサイトを開設し、発信を続けていた。「賀川浩の片言隻句」「このくにのサッカー」「賀川サッカーライブラリー」「Football Japan」などで、コラムや対談を通じて自らの考えを伝えた。

今、スポーツメディアは苦境を迎えている。全国紙の購読者は減り続け、スポーツ紙は駅やコンビニでの販売が厳しい局面にある。スポーツ雑誌も売れない時代に入って久しい。ウェブ版に軸足を移しても経営環境は改善せず、アクセス数稼ぎに翻弄されるスポーツ記者たちの士気は下がり気味のように見える。

賀川さんの長年にわたる報道意欲を支えていたものは何だろうか。それは、言うまでもなく、サッカーへの情熱であり、日本サッカーを発展させたいという強い思いだったのだろう。著書の中で賀川さんはこう書いている。

「64年の東京オリンピック以来、わたしたちの日本サッカーは驚くほどの進化をとげました。しかし、それでも、まだ世界のサッカー一流国の仲間入りをしたというまでには至っていません。物事には必ず『これまで』があり、先人たちが残してきたものがあるからこそ『これから』が生まれるのです。この先、日本のサッカーも再び厳しい時代を迎えるかもしれません。そのとき『このくにのサッカー』を支えるものは、『これまで』何をしてきたか、その蓄積を知り、受け継いでいくことではないでしょうか」(「まえがき」より抜粋)

(賀川浩対談集 このくにのサッカー 日本サッカーの「これまで」と「これから」)

先人たちから受け継ぐスポーツ文化

賀川さんだけではない。昨年来、元朝日新聞の中条一雄さんや元毎日新聞の荒井義行さんといった、日本サッカーの古き時代を知る古参記者が相次いで鬼籍に入った。日本が低迷し、スタンドに閑古鳥が鳴いていた頃からずっと取材を続けてきた人たちだ。ワールドカップの取材に行くのにも会社からは出張費が出ず、夏休みを取って自費で渡航したという話もよく聞かされたものだ。

そんな時代の記者たちがいて、今の日本サッカーがある。彼らが時に厳しく批判し、叱咤していた記事があってこそなのだ。賀川浩さんが報道を通じて燃やしたサッカーへの情熱は、スポーツが受け継がれる文化であることを改めて教えてくれているような気がする。

いいなと思ったら応援しよう!