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「パリ・パラリンピックに参加しない」 一石を投じるアスリートたちの訴え

パリでの熱戦が始まったパラリンピック。開幕を前に、各国の選手たちが「私はパリ・パラリンピックに参加しない」というメッセージをSNSに投稿し、話題になった。どういう意味が込められた発信なのか。その経緯を見ると、障害者スポーツを取り巻く意識の変化が見えてくる。


上地結衣選手もインスタで

日本の選手の中では、車いすテニスの上地結衣選手がインスタグラムに英語のメッセージが表示された画像を投稿した。

“I won’t be participating at the Paris 2024 Paralympic Games”
私はパリ2024パラリンピックに参加するつもりはありません


「私はパリ2024パラリンピックに参加するつもりはない」というメッセージ(国際パラリンピック委員会のウェブサイトより)

そして2枚目の画像にはこう続けられている。
“I will be competing”
私は競いに行くのです

「私は競いに行くのです」

実は、国際パラリンピック委員会(IPC)が企画したキャンペーンなのだ。パリ大会に出場する世界の選手たちを見てみると、カヌーのカーティス・マクグラス(オーストラリア)や陸上短距離のアンバー・サバティーニ(イタリア)、車いすテニスのグスタボ・フェルナンデス(アルゼンチン)といった各国を代表する選手が同じような投稿をしている。

IPCのブランド広報部長、クレイグ・スペンス氏はキャンペーンの狙いについて、「パラリンピアンは、メディアでしばしば『競技者』ではなく『参加者』と表現されてきた。パリ・パラリンピックはその表現を修正する時だと考えている」と説明した。

五輪は「参加することに意義がある」というが……

オリンピックでは「参加することに意義がある」という言葉がよく語られる。1908年のロンドン五輪で米英が陸上競技などで激しく上位争いを繰り広げる中、休日に行われた教会のミサで、司教が選手たちを前に語ったとされる。これを聞いていた近代オリンピックの創始者、ピエール・ド・クーベルタン男爵が「勝つことではなく、参加することに意義があるとは、至言である。人生において重要なことは、成功することではなく、努力することである。根本的なことは、征服したかどうかにあるのではなく、よく戦ったかどうかにある」と述べ、次第にこの言葉が広まったといわれる。

勝利至上主義に対する戒めであり、結果よりも、努力を重ねた過程が人間形成の上では大切だという意味が込められていた。

一方、パラリンピックではどうなのか。IPCが説明するように、パラリンピアンもオリンピアンと同様、鍛錬を積み重ねた「競技者」だ。ところが、メディアでは、障害を乗り越えて大会への切符を手にした「参加者」というイメージで表現されることが多い。そのことが当事者たちには納得がいかないのだ。

元兵士のリハビリがパラリンピックの起源

パラリンピックの歴史をたどれば、第二次世界大戦後の英国に起源はある。ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院で、戦争で負傷し、車いす生活になった元兵士を社会復帰させるために、リハビリとしてアーチェリーの競技会が開かれた。1948年のことだった。

「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」。大会の創始者、ルートビヒ・グトマン医師の教えが共感を呼び、それが国際競技会へと発展してパラリンピックとなった。脊髄損傷による下半身まひを示す「パラプレジア」と、「平行の」を意味する「パラレル」に、「オリンピック」を組み合わせて「パラリンピック」の名称がつけられた。


「パラリンピックの父」と呼ばれるルートビヒ・グトマン医師(「Wikimedia Commons」より)

2004年アテネ大会からはオリンピックと組織委員会が一体化され、オリ・パラの連携が進められてきた。国内でも2014年から障害者スポーツの所管が厚生労働省から文部科学省に移り、トップ選手の練習施設も併用されるケースが増えている。

3年前の東京大会ではスポンサーシップを名乗り出る企業も多くなった。中にはエージェントと契約し、海外を転戦するプロアスリートも現れている。リハビリという域をはるかに超えて、選手たちは世界の頂点を目指す厳しいトレーニングを積み重ねているのだ。

パラスポーツの高度化と将来の課題

障害者スポーツは「パラスポーツ」、選手は「パラアスリート」と呼ばれるなど、社会の意識も変化している。メディアには障害のことを取り上げるストーリーばかりでなく、競技そのものに目を向けてほしい。選手たちにはそんな思いが募っているのではないか。

パラリンピックを取材する記者からこんなエピソードを聞いたことがある。20年ほど前だった。ある選手から「パラリンピックは社会面に記事が出ることが多いが、それよりもスポーツ面に記録を載せてほしい」と言われたそうだ。つまり、健常者と同じアスリートとし、スポーツとして扱ってほしいという訴えだ。

今回のIPCのキャンペーンを知って、その時の話を思い出した。競技がますます高度化し、勝利至上主義に陥れば、五輪のような弊害も起きるだろう。ドーピングや燃え尽き症候群などの問題だ。プロ化が進めば、成績次第で生活が不安定になるリスクもある。そのような懸念に注意を払った上でパラスポーツが発展し、一般的な障害者にもスポーツに親しむ環境が広がることを期待したい。

多様性の尊重が叫ばれる時代である。パラリンピックから発せられるメッセージに耳を傾けたいものだ。


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