見出し画像

クーベルタンの思想を2冊の本から読み解く(下)

前回の投稿(上)では1962年に初版が出た「ピエール・ド・クベルタン オリンピックの回想」(大島鎌吉訳、カール・ディーム編)を紹介した。今回取り上げるのは、それから約60年がたった2021年に出版された「ピエール・ド・クーベルタン オリンピック回想録」(伊藤敬訳、日本オリンピック・アカデミー監修)である。原文からの直訳で、より読みやすくなったクーベルタンの言葉から今の五輪や世界の平和構築につながる思想を考えたい。


新訳書はフランス語からの直訳

大島鎌吉氏が訳した旧訳書は、クーベルタンがフランス語で書いた文章を、クーベルタンの「使徒」とも呼ばれたドイツのスポーツ哲学者、カール・ディームがドイツ語に訳し、それをディームと懇意だった大島が日本語に訳したものだ。クーベルタンに対する認識も低かったのだろう。表紙のタイトルも「クベルタン」だった。1964年東京五輪の2年前、その思想を日本に持ち込むという意図があったという。

しかし、重訳のために文意不明の文章も多く、日本語としても難解であった。また、歳月を経て入手困難であることから、日本オリンピック・アカデミー(JOA)の会員であり、フランス文学も専攻していた伊藤氏がフランス語の原文に直接当たって和訳に取り組み、クーベルタン研究を行うJOAのメンバーが監修した。発行されたのは、コロナ禍で延期された東京五輪の閉幕後だった。

国際オリンピック委員会(IOC)を創設したパリでの会議や、1896年に開催された第1回アテネ五輪、アマチュアリズム、第1次大戦時の4年間、今から100年前に開かれたパリ五輪など、その時々のクーベルタン原稿が収容されている。中でも重要なのは、最後に収録されている「近代オリンピズムの哲学的基礎」だろう。これこそが、クーベルタンの思想を知ることのできる貴重な手掛かりといえそうだ。

他界する2年前のラジオ講演

クーベルタンが亡くなる2年前、ドイツからの要請を受けて行ったラジオ講演の原稿だ。講演は1935年8月7日に放送された。当時、クーベルタンはIOCの終身名誉会長を務めていた。翌年にはナチスが主導するベルリン五輪が控えていた。

クーベルタンは、五輪を「古代においても、近代においても、それが一種の『宗教』である」と述べている。古代オリンピックはギリシャの全能の神、ゼウスに捧げる神事として行われていた。それを現代に置き換えるとどうなるのか。

「自らの筋肉で凱歌を掲げようと熱心に望むギリシアの若者たちの足をゼウスの祭壇に向けた感情の代わりに、ひとつの原理として、現代に顕著なインターナショナリズムと民主主義という考え方にまで変容し、拡張された宗教的な感情を対置して然るべきではないかと考えました」

『ピエール・ド・クーベルタン オリンピック回想録』より。以下の引用も

古代における神への感情を、インターナショナリズム(国際協調主義)や民主主義に置き換え、スポーツがその役割を担う。スポーツには、ルールを「共通言語」として世界の人々が交わることができる特長があるからだ。

「五輪休戦」の願いは強く

古代オリンピックには、オリンピアへの選手の往来を安全に保つため、大会中とその前後は都市国家(ポリス)間のあらゆる紛争を休止するならわしもあった。神事ゆえにポリスもこれに従った。クーベルタンはこうした故事に共鳴し、「休戦の観念、ここにもオリンピズムの一つの要素があります」と述べている。

「わたし自身の考えでは、戦争のただ中でも、フェアで礼節を守ったスポーツの試合を挙行するために、敵味方双方が一時的に戦闘を中断することができれば、こんなにすばらしいことはありません」

古代オリンピックでは、オリンピアは「アルティス(聖域)」であり、集まるアスリートは「祭式執行者」と位置付けられている。近代オリンピックにおいては競技会場や選手村などが「聖域」であり、自らの力を競うために集まってきた世界のアスリートが国際協調主義や民主主義のもとに戦うのだ。

女性の参加には否定的だった

ただ、クーベルタンは女性の参加には否定的だった。「公開の場で行われる試合への女性の参加は認めたくありません。それは、女性がさまざまなスポーツの実践を差し控えるべきだということではなく、見世物となってはいけないということです」と記されている。古代オリンピックでは女性の参加はおろか、観戦さえ認められず、男性が全裸で競技をしていたとされる。そうした古代のあり方を踏襲したともいえるが、今や隔世の感は否めない。クーベルタンが将来を見誤った例だろう。今年のパリ五輪では参加者の枠が史上初めて男女同数となった。

平和への願いは相手の敬意があってこそ

講演の最後に述べたのは、やはり平和への願いであった。このくだりは、クーベルタンの理想や理念を語る上で欠かせない部分である。

「人民に相互に愛し合えと求めることは、児戯に等しいやり方にすぎません。しかし、相互に敬意を払うことを求めることは、ないものねだりではありません。敬意を払うには、まず相手を知る必要があります。これから教えられるべき世界史は、百年の単位で正確さと地理的にも公平を期したもので、それのみが本当の平和の本当の基礎になります」

相手を知り、敬意を払うことができれば、それは平和の礎となる。そんな思いがにじんでいる。スポーツの場における競技者同士の交流が、やがて国際社会に相互理解をもたらす。クーベルタンは最後に「わたしの信念が若い頃から将来に至るまで不動であると申し上げておきたいと思います」と結んでいる。


ギリシャ・オリンピアにある古代オリンピック遺跡=「Wikimedia Commons」より

クーベルタンは1937年9月2日、余生を送っていたスイス・ジュネーブのレマン湖畔の公園で倒れ、そのまま息を引き取った。74歳だった。本人の遺志により、その心臓のみが遺体からくりぬかれ、オリンピアへと運ばれた。近代オリンピックの父の「心」は、古代オリンピック遺跡に近いクロノスの丘に建てられたクーベルタンの記念碑の下に埋葬されている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?