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憧れのおばあさん

私がまだ22歳で免許をとりたての頃、同居している祖母をどこかに連れていきたくて、病院、買い物、近場で行けそうなところはどこでも連れて行った。

ある日、祖母が「山菜を取りに行きたい」というので、車で山菜採りスポットの近くまで乗せていった。

当時、私は雑貨店で働いていて、ジャニス・ジョプリンに憧れ、ヒッピーのような服装をし、ネックレスをジャラつかせ、両腕に無数のブレスレットを装備し、髪の毛は、チリチリロングボンバーヘアだった。、そんな服装で山菜採りなどできるわけがないので、沢の近くに降りていく祖母をガードレール越しに見守り、時折「おばあさーん👋」と手を振ったりしていた。

姿が見えなくなったので、車に戻ったとき、ふと駐車している車を、もっと端に寄せようと思った。それがいけなかった。少し運転慣れして油断した私は、道路の端に車を寄せすぎて、見事に側溝にはまってしまった。どうにかして側溝から脱出したのだが、見事にパンクしてしまった。
そこへ祖母も山菜採りから戻ってきた。

私は「どうしよう」と軽くパニックになっているにもかかわらず、祖母はのんびりと採った山菜のチェックやごみ取りを始めた。(こんなときに、よくのんびりしていられるもんだ)と内心思いながら祖母を見ていた。

山の中なので携帯電話は圏外で誰にも連絡を取れない。歩いて帰れない距離では無いが、車を置いていくのも気が引ける。

その時、車が通りかかり、50代くらいの男性が「こんなところでどうしたんですか?」と声をかけてくれた。

事情を説明すると、その方は、「大丈夫だぁ、後ろさタイヤついでらがら(後ろにタイヤが積んであるから、の秋田弁)」と手際よくスペアタイヤに取り替えてくれた。何度もお礼を言い、名前を聞いたが、そのときは「いいがら、いいがら」と言って教えてくれなかった。

(後日、その方はあっさりと見つかり(役所に問い合わせたらすぐわかった)、無事にお礼をすることができた。)

とにかく祖母は何があっても動じない、多少のことは目をつむってくれる、おおらかな人だった。

祖母は小さい頃、学校に行けなかったが、奉公先の学校の先生の家で字を学んだ。後にその先生が出版した本には、子どもの頃の祖母の写真が載っていた。こんなに小さいときから働いていていたんだな、と切なくなった。
働き者の祖母は、共働きの私の両親の代わりに家事を全てこなし、起きている間は常に手を動かしていた。70歳を過ぎてからも自ら山菜を採りにいき、高く買ってくれる業者を探しては交渉し、お正月前などは、一日に一万円以上売り上げることもあった。
今思うと祖母が80歳を過ぎても元気に歩くことができたのは、農家の手伝いや、山歩きで鍛えた丈夫な足腰があったからだと思う。

決して贅沢はしなかった祖母。金利の高い時代にせっせと貯金や保険で増やし、切り詰めるところはとことんまで切り詰めた。おかげで、ローンを組むことなく私の実家を建てることができたと母が言っていた。(父が大工なので、あまり人件費がかからず安く建てられたのもあるとは思うが‥‥(笑))

とにかく祖母は日々いろんなことにチャレンジして、生き生きとしていた。

祖母は8年前に亡くなったが、帰省する度にあの日のことを思い出す。そして、私もあんなおばあさんにななりたいと思うこの頃だ。



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