2. 日本のディジュリドゥ黎明期
西日本初のディジュリドゥ・ミーティング「KANSAI BLOWOUT」
NYから帰国後、演奏方法もディジュリドゥの音源も知らないままに闇雲に練習して循環呼吸はできるようになったものの、「ビィヨォーン」というドローンの音しか知らず、悶々と1年ほどを過ごしていた。
そんな中、KANSAI BLOWOUTというディジュリドゥ・ミーティングがはじめて大阪の中之島のバラ園にて行われると聞きつけ、自作の竹のディジュリドゥをかついで出かけて行った。
目元が隠れるくらい前髪があるチリチリのソバージュヘアーの背の高いやせたお兄さんが近づいてきて、「自分どっから来たん?ぼくこの会主催してるキンヤです」と話かけてきたのが和歌山のキンちゃん。そしてその隣にはこちらを全く意にも介さず、しゃがみこんでひたすらディジュリドゥを鳴らし続ける色白のツヤツヤ黒髪のお兄さん……。それは、後に「西の殺人マシーン」という異名を持つ京都のディジュリドゥ奏者西崎さんでした。
当時、横吹きでドローンしか鳴らしたことのない自分は、その時のキンちゃんと西崎さんの二人の演奏にかなり驚かされました。プーというトランペットのような音、キャンキャンと鳴るハイボイス、それらがコールとトゥーツ(当時はホーンと呼ばれていた)というドローンとは別の方法で鳴らされるテクニックだというのを初めて知ったのでした。
それくらいディジュリドゥに関する情報がない時代だったので、その後月1回ペースで行われたKANSAI BLOWOUTは関西在住のディジュリドゥ奏者にとって、人との交流・口コミ的な情報の場として今思い返してもすごくいい集まりでした。
この場所で、大阪のディジュリドゥ・ショップAvalon Spiralを運営することになる三上さん、一緒にオーストラリアを何度も旅をすることになった出口くん、民俗学的見地と数多の学びをご教授下さった国立民族学博物館の松山利夫先生など、いろんな出会いがありました。
100人ディジュリドゥと日本のディジュリドゥ奏者たち
2000年、和歌山の和歌浦のバグースにて月の祭りというイベントが行われ、その中でキンちゃんの呼びかけで全国からディジュリドゥ奏者が集まって、「100人ディジュリドゥ」が行われました。
ディジュリドゥを持ったたくさんの人がビーチでサークルになって、一斉にディジュリドゥを吹くという体験は後にも先にもこの時だけで、その後一度も同じようなことをする機会はありませんでした。
2本以上同時に鳴らすことは伝統的なアボリジナルの演奏ではありませんが、同じ楽器をやる人が集まって一斉に音を鳴らすというのは、水木しげるの「河童千一夜」で描かれた河童の合唱に似た、一つ一つの音が存在するというより音が塊になってる感じがしました。
この時、松山利夫教授がビデオ撮影のスタッフを連れてきてその日の様子を撮影し、一人づつインタビューした映像が「日本のディジュリドゥ奏者たち」というビデオにまとめられました。
当時、カメラを向けられてインタビューを受けた時に何をしゃべったのか、明確には覚えていませんが、「この後オーストラリアに行ってアボリジナルの伝統的な演奏を学んで、今の自分のディジュリドゥの演奏スタイルとミックスした新しい演奏スタイルを作りたい」的なことをしゃべったように記憶してます。
その後、大阪の心斎橋のアメリカ村に天空オーケストラの三上さんによって「Avalon Spiral」ができ、パトリックの「関西ディジュ」もでき、京都の民族楽器コイズミでもディジュリドゥを扱っていて、関西が日本でディジュリドゥが一番ホットな場所になっていったのでした。
そのハシリとなったのがKANSAI BLOW-OUTだったんじゃないかなぁと思います。振り返れば、知らないから、分からないから、集まって、顔を突き合わせてコミュニケーションしてたんでしょうね。今やインターネットで情報がたくさんあるけれど、人から人へと伝わるミームこそが重要なんだなぁって思います。