小学校高学年の頃か。虐められていた。私は。だから生理用品を貰いに保健室に行ったら、トイレに到達する前に男子に取られた。いわゆるガキ大将。人の喉を傘の先で着いて声をからすくらいの陰険さ。それを悪びれもせずにからかってくる底意地の悪さ。 取られたあと男子便所にたてこもられて、その取り巻きが私をたどり着かせまいと殴る蹴る。暴行。 やっと話が保健の先生の所にまで行ったと思ったら「生理用品を見てどう思った?」という温い質問で終わったらしい。 血まみれ祭りの女子を殴る蹴るしていた男子たち
散文:寝られないのでピルクルかヤクルト1000かカルピス600(?)みたいなやつを探しに行こうと思う。睡眠薬の過剰摂取はやめたい。
否が応でも田舎の中学です。全日制の高校に薦められます。私は専願で私立校を受けたのですが、見事受かりました。早いんですよね。私立の専願。内容も簡単だし、中学の問題集を履修すれば受かるような学校でした。 みんなが試験勉強や思い出のアルバムを作る中、私は相変わらずクラスで浮いた存在でした。やはり馴染めなかったのです。どうせ当てにもされないのなら一人で居たいと思い保健室が相変わらずの居場所。もうこの頃の記憶は薄れてきています。私のことを誰も知らない新しい高校。それに心を弾ませていま
さっきふと思い出したんですよね。21歳の新年の目標が「1年間生き抜くこと」だったことを。 当時の私は元彼のDVからのトラウマ。処方薬への依存、OD、セルフハーム、過食嘔吐に鬱などなど字面を見ればえらいこっちゃな人生を歩んでおりました。まさに生ける屍。死んでいないだけという形容が相応しいほどに。みーんな就職して結婚して·····人生のステージを駆け上がっている時に実家に転がっている死んでない物体だったわけです。 人と比べて落ち込むことにも疲れていました。朝起きてタバコを吸っ
鬱です。なかなか気分の上下が治まりません。長年患っていても酷くなってくると自分ではどうにも出来ないのが病気でして。 はい、今日はタイトル通り無職になった夫の奇っ怪な行動を観察していきます。 辞めたいと言い出した4月、気合を入れて話をし、来月(5月)には辞めることを確約してきました。個人事業主で有給の消化はないそうです。ここで察しのいい方はわかりますよね。ブラック企業です。プライベートにも踏み込んでくるし、家族の病気の有無や建てた家の築年数まで根掘り葉掘り聞かれるような会社
中二の三学期は一日も登校しませんでした。なんなら担任の二週に一回の家庭訪問もなくなっていました。あったんですよ。 この担任、どうもミーハーでオイルマッサージを習ってきてはわたしに試したり、ネイルを可愛いと褒めてくれたのに次の日には校長室に母親を呼び出すなど、信用も一貫性もない方でした。 社会科見学の当日に連れ出してみたものの上手くいかなかった私たちの班の共通意見、「楽しくなかった」というのを生徒伝手に聞いては「学校に行かなければワガママになる」と精も根も尽き果てているわたし
数日前からのぎっくり腰により、地面を這いながら生活をしていました。皆様はどのようにお過ごしでしたか? さて、わたしたち夫婦は健康であるときは、それはもうベストパートナー·····とはいえないまでもそこそこに意思の疎通ができているんです。 さて困るのが片方が健やかではないときです。それも主に私が。 まず寂しくなる。スキンシップを求める。忘れられる。というのが毎度。これは結婚当初からの不満ですので、身体が弱るとフツフツと再燃するのです。 動けない体。甲斐甲斐しく世話をして
ありがたいですよね。義務教育。なーんにもしなくっても進級できます。 中学2年になった私は学校行事もそこそこに週2程度休み始めていました。 この頃の記憶ってなんだか辛くて鮮明に思い出せないんですよね。家族がなんとか学校に行かせようとしていたのを覚えています。 まず塾なんですけどね。辞めました。無気力です。そもそも学校にもまともに行けなくなった人間が塾ならモチベーションを保てるかというと、無理です。 そこが逃げ場になっているなら幸せな事ですので、あくまで私の話です。 学力
制服もダボダボ、膝丈下に指定されていたプリーツスカート。指定の白の靴に白い靴下。下着の色も無地の白。 Theブラック校則に身を包んだ中学生生活がはじまりました。良くも悪くも淡い恋愛や青春に胸を躍らせて入学した記憶があります。 実際は3日で打ち砕かれたんですけどね。 このクソオブクソのド田舎の中学校では強制的に運動部、吹奏楽部、文化部(パソコン教室に放課後集められるだけ)に入部しなければなりません。 運動部は野球、ソフトテニス、バレー、卓球。野球に女子は入部できません。逆に
私、結構最近追い詰められてまして安定剤剤多めに飲むんですよ(良い子も良い人もそうでない人も真似しちゃダメよ) だからねー。よく記憶が飛ぶんですよ。言わばアレです。酒の飲みすぎで飛んでるって感じのやつ。 そこでね、たぶん健忘おこしてるときに言っちゃったんですよ。息子に。「この家(義実家)出てママのばぁばの家で暮らそう。そいでそっから新しい保育園行こう」って。 なんて罪深いんでしょうね。保育園大嫌いで毎日泣き叫びながら行ってる息子には天の声のようにも聞こえたのだと思います。ほ
実は父の転勤先からまたさらに移動で転勤してたんです。小学生の頃。 そこそこに仲のいい友達もいて、部活にも入ってコンクール目指そー!なんてときに転校でした。はい。お別れも済んで、手紙書くよーなんてありきたりの約束を紡いで。 戻ってきました、クソオブクソのド田舎に。偏見と世間体と監視が取り巻く伏魔殿。ここで私の根幹は歪んでいきます。ええ、それはもうぐねぐねと。 初めこそハキハキと凛とした都会的な私で居られたんですけどね、目立つんです。そんなことすると。田舎では。 女子からは浮
使い方がー!わかりましょえん!魔法のiらんど以来よ。いや、mixi日記以来?長文を書くのは。 過去編に移る前に、とりあえず現状を。 夫(年上)、息子(幼児)、義父母(片方認知症)&私と猫1匹で暮らしております。 やー。別居したいですねー別居したいですわ奥さん。 そもそも私がこの義実家に嫁ぐ前からこの家には頻繁に来客がありました。気に入りませんが私かて嫁です。目をつぶっておりました。 そんなこんなで結婚4年目、コロナ禍に突入てしまったんですなこれが。 ある日の朝、夫の調
なんだろう?ド田舎で育ったから、葬式の時に近所のばーちゃんが死んでて、その孫がうちの母に抱きついて泣いてたことくらい?うん。それくらい家族間の付き合いはベッタリだったと思う。鍵もかけずにチャイムも鳴らさず、グングン台所へ。そんな文化。 弟が産まれたらみーんな当たり前にそっちの方が可愛くて。しっかり者のお姉ちゃんしてたかな。たぶん。 でも夜尿症が治らなくてさ。それを母が近所の人に言うわけ「この子ほんとにおもらしばっかりして。」ピエロのわたしは笑うのよ。「うん。パンツでしちゃう
何の面白みもありません。興味を惹かれるかと聞かれると疑問も残ります。 ただ徒然なるままに私の半生をつらつらと書き記していけたらと思います。私なりのエッセイなのだと思います。たぶん。 鬱、不登校、依存的な恋愛傾向。過干渉な親子関係。ODに自殺未遂。たんたんとこなして現在を生きております。ご縁があって夫にめぐり逢い、息子にも恵まれました。 乗り越えたわけでも自分で整理が着いたわけでもありません。 もし読んでくださる奇特な方がいらっしゃるなら、そしてさらに親切な方がいらっしゃる