「やらない善よりやる偽善」の盲点
僕は若い頃からボランティア活動なんてろくにしたことがなかったけれど、30才辺りからまめに従事するようになった。こう書くとなんだか立派な人間のように見えるけれど、そうではなくて、単にそうしなければいけない立場になっていたというだけの話だ。
たとえば妻や親への献身と、ときどき町会の奉仕活動などがそうだ。なんだそんなことかと思うかもしれないが、馬鹿にしてはいけない。どれも疎かにしていいものではないのだ。特に妻への奉仕は努々疎かにしてはいけないと、僕自身に戒めている。
さて本題の「やらない善よりやる偽善」についてだけれど、これは元々は被災地のボランティア活動について意見されたものらしい。なかなか考えさせられる含蓄のある言葉だから改めて考えてみたくなった。
上の僕個人の生活に引きつけるなら、人付き合いにおいて「やらない善」なんてあるのだろうか?何もしないことで達成される善行があるなら、寝ていることが善いことになってしまう。
逆に目に見えるような行動としては何もしないが、相手を気遣ってそっとしておくことは善行に違いない。けれど被災地にしてみればそんな気遣いは無用どころか迷惑でさえあるだろうから、とにかく何かしらの援助が必要だ。
ではといって支援物資や現金を送ったり、あるいは支援ボランティとして現地に行くことがどれほどの助けになるだろうか?単純な数字で考えるとして東日本大震災の被害総額はおよそ17兆円に及ぶが、義援金の総額は4400億円で、被害総額の3%にも満たない。
現地ボランティアにしても参加者の合計がおよそ42万人になるそうだが、地震発生の2011年から2021年の10年間で平均4万2千人になる。これは単純に計算できないけれど、日雇いの土木作業員の日給で計算すれば一日1万5千円だとして、それを年中無休で活動したとして年間360万円を4万2千人で掛ければおよそ2300億円になる。
これを10年続けると2兆3千億円で被害の13%程度になるけれど、10年間年中無休で活動なんてできるはずがないから、1年間無休で活動したとして2300億円なら全体の1%程度に留まる。義援金と合わせてだいたい全体の4~6%程度だろうか。多く見積もっても10%にもならないだろう。これは焼け石に水ではないか?
「やる偽善」だという主張の根拠もここにあるだろう。これで何かやった気になって終わるほうが罪が深いとも言える。なぜなら東北の復興はおろか復旧さえまだ覚束ないわけだから、実際にはまだ何も解決していないのだ。
この議論の実態は被災地から見れば、何もしない人と何かした気になった人の五十歩百歩の議論だ。義援金もボランティア支援も復興に対して効果が薄いとなれば、あとはもう政府にしかできない仕事だ。
国民が被災地を助けようとする善意は尊重すべきだけれど、無批判の善意はありがた迷惑になりかねないし、なっている場合もあるようだ。まずは善意を向ける正しい方向を知ることが先だ。そうでなければどの善意も独善だし偽善だ。